本多忠伸
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本多忠伸(ほんだ ただのぶ)は、陸奥泉藩の第7代(最後)の藩主。忠以系本多家10代。
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時代 | 江戸時代後期から明治時代 | |||
生誕 | 嘉永5年(1852年)1月 | |||
死没 | 明治36年(1903年)3月5日 | |||
墓所 | 東京都墨田区向島の弘福寺 福島県いわき市泉の忠伸公霊位泉住院 |
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官位 | 従五位、正五位、従四位 正四位、従三位、兵庫助、宮中祇候 |
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藩 | 陸奥泉藩主 | |||
氏族 | 本多氏 | |||
父母 | 父:本多忠行、養父:本多忠紀 | |||
妻 | 正室:遠山景明の娘 | |||
子 | 本多忠彦(長男)、本多忠晃(次男) |
嘉永5年(1852年)1月、本多忠行の長男として生まれる。第6代藩主・本多忠紀が戊辰戦争において旧幕府軍に与して新政府軍に抵抗したため、明治元年(1868年)12月に忠紀は強制隠居処分に処された。このため、養子である忠伸が家督を相続して第7代藩主となる。このとき、所領も2万石から1万8000石に減封された。
明治2年(1869年)の版籍奉還で泉藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免職された。明治36年(1903年)3月5日に死去。享年62。
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