末次元康
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末次 元康(すえつぐ もとやす、永禄3年(1560年) - 慶長6年1月13日(1601年2月15日))は毛利元就の8男。少輔七郎。官名は兵部大輔、大蔵大輔、官位は従五位下。
はじめは出雲末次城主となったことから末次姓を称したが、天正13年(1585年)に同母兄・椙杜元秋が急死したため同国月山富田城代となった。1591年、吉川広家が富田城主になり、元康は備後国神辺城主となる。 豊臣秀吉の朝鮮出兵にも参加している。 1600年の関ヶ原の戦いの際には、東軍か西軍かと揉める家中の収拾に当たっている。そして大津城攻略戦にも参加し、その勇猛振りを遺憾無く発揮している。
関ヶ原戦後は長門国内に15,000石を与えられ、子孫は長州藩一門家老厚狭毛利家となった。
なお広島市中区の元安橋(もとやすばし)は、毛利氏支配時代に築造されたもので、橋の名は彼に由来する(彼が架橋工事を指揮したとも、彼の屋敷に続く通りに架けられたともいわれる)。