朝日遺跡
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朝日遺跡(あさひいせき)は、愛知県清須市・西春日井郡春日町・名古屋市西区にまたがる弥生時代の東海地方最大級の環濠集落遺跡で、範囲は東西1.4キロメートル、南北0.8キロメートル、推定面積80万平方メートルにも及ぶ。
発掘調査は、昭和4年(1929年)から貝殻山貝塚を皮切りに開始されたが、本格的には、名古屋環状2号線(国道302号線)および清洲ジャンクションの建設工事が開始された、昭和47年(1972年)から始まった。
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[編集] 遺跡の概要
- 概要:弥生時代を中心に栄えた集落遺跡である。集落間の闘争の歴史と住民の生活の状況の両方を知ることができる。特に弥生時代中期の初頭~後半にかけては、環濠のほか柵列、逆茂木、乱杭など集落を二重、三重に囲む強固な防御施設が見つかっており、全国でも初めて発見されている。今でも全国の弥生中期遺跡としては最大級である。これらの防御施設の発見で、集落が城塞的な姿であったことが分かり、それまでの牧歌的な弥生時代のイメージを「戦乱の時代」へと大きく変える根拠になった。
- 発掘時期:昭和4年頃に開始。現在の調査は、清洲ジャンクション工事が始まった昭和47年(1972)以来、断続的に実施。
- 発掘機関:愛知県教育委員会、清須市教育委員会、春日町教育委員会、名古屋市教育委員会、財団法人 愛知県教育・スポーツ振興財団(愛知県埋蔵文化財センター)
- 主な遺構:弥生時代の環濠集落(環濠、逆茂木、乱杭、竪穴住居、井戸、方形周溝墓、貝塚)弥生時代のヤナ遺構、水田遺構等の生産域ほか
- 主な遺物:弥生土器、石器、骨角製品、玉類、銅鐸、木製農具、都市型昆虫・寄生虫ほか
- 位置づけ:昭和46年、貝殻山貝塚地点を含む約10,000平方メートルが国史跡の指定を受ける。朝日遺跡全体の出土遺物は貝殻山貝塚資料館で展示。
- 遺跡の現状:遺跡の中心部を東名阪自動車道や国道22号線が交差しており、貝殻山貝塚と検見塚以外、往時の面影はほとんどない。
[編集] 遺跡の変遷
[編集] 縄文時代
- 縄文中期末の土器が出土している。
- 縄文後期前葉にドングリ貯蔵穴が設けられる。
- 縄文晩期前半の土器片が出土している。
[編集] 弥生時代
- 前期
- 国指定史跡の貝殻山貝塚や二反地貝塚、県指定史跡の検見塚(貝塚)などを中心にして環濠集落が営まれるが、当初から環濠が巡っていたのかどうかはわからない。
- 貝殻山貝塚の南で実施された1995・1996の調査では伊勢湾周辺地域で最古段階の遠賀川系土器と最終末段階の突帯文系土器が共伴した。
- 朝日遺跡の場合、縄文時代の貝塚とは違い、貝層の多くは集落を囲む環濠内に形成される。
- 中期
- 中期前葉には、東西にのびる谷に沿う南北の微高地に居住域と墓域が形成され、大まかには、南北に居住域、東西に墓域という配置をとるが、東西の墓域は順調に拡大して中期後半には南北居住域の周囲を取り巻くほどに成長する。中期前半には南北居住域とも大溝で外縁が区画され、南居住域は内部が大溝で区画されるだけでなく、溝や柵でさらに小さく区切られていたようだ。
- 中期前半の東墓域では方形周溝墓のほとんどが四隅切れ(A4型)でかつ中心埋葬が木棺1基で小口板のピットを残す例が多く、土坑墓や土器棺墓はほとんど伴わない。また、継続して超大型方形周溝墓が造営され、その周りを中小規模の方形周溝墓が取り囲む集塊状の墓域形成が認められる。いっぽう西墓域では、小規模なものやA4型以外の平面形が目立ち、墓域の一角には土坑墓群や土器棺墓も伴うというように、対照的な姿をみせている。
- 玉作工房は、(1)東墓域の北部、(2)北居住域南縁の別区、(3)北居住域内部の3ヶ所で見つかり、(1)(2)は中期前葉に属し、(3)は中期前葉から中葉まで幅がある。(1)は谷を挟んで南北に少なくとも2つの工房があり、墓域の動向からみて南から北へ移動している可能性が高いが、北の工房域の範囲は100mほどと広い。菱環鈕式銅鐸の石製鋳型はこの北工房域外縁の土坑から出土した。そして、北居住域が環濠で囲まれたことにあわせて(2)や(3)の工房が営まれ、最後には(3)で終末を迎えたとすると、操業規模は大幅に縮小したことになる。
- 中期後半には再度北居住域を囲むように3~4条の環濠が巡り、谷にかかる部分には柵・逆茂木(さかもぎ)・乱杭などの強固なバリケードが設けられる。柵は二列で、下部に逆茂木が伴う厳重な構造であるが、中期後葉(凹線紋系土器期)に崩壊した。
- 中央の谷にはマガキを主とする大規模な貝層が形成される。中期後葉にはハマグリを主とする貝層になる。
- 朝日遺跡の変遷を考える上で無視できないのが、中期後葉の変化である。竪穴建物は円形が消滅してすべて方形・長方形・胴張り長方形になる。方形周溝墓は四隅切れ(A4型)が消滅して一ヶ所切れ(A1型)となり、土器棺を含む複数の埋葬施設を伴い、周溝には供献土器以外の廃棄を伴う例が出現する。とりわけ、特徴的なのが東墓域に人々が住み始めただけでなく、それ以前の方形周溝墓を無視して新たに方形周溝墓を造営する点であり、ここに朝日遺跡の〈歴史的な終焉〉をみることができる。逆に中期後葉は〈新たな歴史の始まり〉といえる。
- 史跡としては、検見塚があり、弥生時代中・後期の土器・勾玉などが出土している。
- 後期
- 南北の居住域はそれぞれ1~2条の環濠で囲まれる(北環濠集落・南環濠集落)が、北環濠集落の東側は中期後半の環濠を再掘削して水路が設けられ、環濠に隣接する1条にヤナ遺構が設置されていた。
- 墓域は南北の環濠集落それぞれを囲むように営まれる。埋葬施設からガラス小玉が出土するのもこの時期からだが、装身具ではなかったようだ。壺棺には高杯を蓋にするものがあり、日本海側地域との共通性が認められる。
- 銅鏃や鉄器(斧)が出土し、銅滴が出土した北環濠集落では青銅器が作られた可能性が高い。
- 南環濠集落の南縁では環濠掘削以前に銅鐸が埋納された。
[編集] 弥生時代以降
- 古墳前期の竪穴建物には完全に埋没せず、長期にわたって窪地状になっていたものがあり、ほとんどが廻間III式期から松河戸I式期に属す。朝日遺跡最後の閑散とした状況を髣髴とさせる。
- その後は5世紀代の円墳が造られる。貝殻山貝塚資料館内のマウンドは、円墳の可能性が指摘されている。
- 6世紀以後は湿地化して、鎌倉時代には方形土坑群が展開する墓地となる。
[編集] 発掘調査の歴史
- 1929年11月~12月頃 加藤務氏(津島高等女学校教諭)により貝殻山貝塚を発掘。12月18日に名古屋新聞誌上に発掘調査結果を発表。
- 1929年12月24日 鳥居龍蔵博士(東京帝国大学)が、貝殻山貝塚と近隣の検見塚を発掘。鑑定の結果、弥生式の遺跡であることが明らかになる。博士はこの2つの貝塚について「貝塚の上が古墳になっている」と、古墳説を展開(検見塚については、今も古墳説が唱えられる)。
- 戦後、貝殻山貝塚周辺の貝塚や集落跡の調査が盛んになり、「朝日遺跡群」と呼ばれるようになる。
- 1971年貝殻山貝塚周辺の約1ヘクタールが国史跡指定を受け保存された。
- 名古屋環状2号線(国道302号)・東名阪自動車道の建設に伴って遺跡調査が始まり、それまで「朝日遺跡群」と呼ばれていた当遺跡が、ひとつの大集落としての朝日遺跡に変貌した。
- 1995年・1996年の貝殻山貝塚南側の発掘調査により最古段階の弥生土器(遠賀川系土器)が出土した。
- 現在も発掘調査は進められている。
[編集] 主な遺構
- 松菊里(そんぐんに、しょうきくり)型住居:
- 韓国忠清南道の検丹里(こむたんに)・松菊里(そんぐんに)遺跡で発見された住居跡と同じ造りであることからそう呼ばれる。
- 玉作工房跡
- 大型方形周溝墓
- 柵・逆茂木(さかもぎ)・乱杭:
- 環濠が掘れない谷の部分に設けられた防御施設。
- 貝層
- ヤナ遺構
- 銅鐸埋納遺構
- 南北の周囲に水田遺構等の生産域
- 塚(貝塚など)
[編集] 主な遺物
- 円窓付土器
- パレス・スタイル土器
- 装身具
- 銅鐸
- 巴形銅器
- 骨角製狩漁具
- 木製農耕具
- 最古型式である菱環鈕式の石製銅鐸鋳型の破片。弥生時代中期初め。銅鐸の分布は近畿・山陰地方が主である。
[編集] 展示
[編集] 資料館
- 愛知県清洲貝殻山貝塚資料館(愛知県立)
[編集] その他の展示品
- 愛知県朝日遺跡戦闘復元模型[弥生時代中期](国立歴史民俗博物館)
[編集] 公式キャラクター
- カネツクリのアサヒくん
- (2006年に発行された愛知県埋蔵文化センター発行の「発掘調査報告書(DVD版)」の付録として所収。原作は、遺跡の研究員、陰山誠一氏。大橋よしひこ氏が作画。ただし、セリフがはいっていない。)大橋よしひこ氏サイト