有馬頼貴
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 延享3年4月2日(1746年5月21日) | |||
死没 | 文化9年2月3日(1812年3月15日) | |||
別名 | 定五郎(幼名) | |||
戒名 | 大乗院殿前羽中書大卿寂源道光大居士 | |||
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 | |||
官位 | 従四位下、上総介、侍従、左少将 | |||
藩 | 筑後久留米藩主 | |||
氏族 | 摂津有馬氏 | |||
父母 | 父:有馬頼徸、母:奥田氏 | |||
兄弟 | 幾代(丹羽高庸婚約)、有馬頼貴、多吉郎 | |||
妻 | 正室:毛利重就の娘・勢代姫(養源院) 側室:吉田氏、高木氏 |
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子 | 恒(松平斉宣婚約)、里代(有馬氏恕婚約、 有馬氏保室)、栄(土井利制室のち稲葉雍通室) 有馬頼董、有馬頼善、有馬頼瑞、有馬頼豊 品(丹羽長祥室)、有馬頼久、有馬頼寧 錘(土岐頼潤室)、国(木下俊良室) 順(有馬則荘婚約のち石川総登室) 庭子(戸田忠延室) |
有馬 頼貴(ありま よりたか)は、筑後久留米藩の第8代藩主。
延享3年(1746年)4月2日、第7代藩主・有馬頼徸の長男として生まれる。宝暦8年(1758年)に従四位下・上総介に叙位・任官される。天明元年(1781年)に侍従に遷任された。天明3年(1783年)に父が死去したため、天明4年(1784年)1月23日に家督を継いで第8代藩主となった。
当時の久留米藩では財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬を好んで日本全国は勿論、オランダからも犬の輸入を積極的に行なって財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したりリストラしたりして対処している。しかし江戸幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった。
寛政8年(1796年)に藩校・明善堂を創設し、藩士教育に尽力している。文化元年(1804年)に左少将に遷任された。文化9年(1812年)2月3日に死去。享年67。
子の有馬頼端は早世していたため、その息子である有馬頼徳が後を継いだ。
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