有馬頼利
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有馬 頼利(ありま よりとし)は、筑後久留米藩の第3代藩主。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 承応元年(1652年) | |||
死没 | 寛文8年6月24日(1668年8月1日) | |||
別名 | 松千代丸(幼名) | |||
戒名 | 壷源院殿賢岸道哲大居士 | |||
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 | |||
官位 | 従四位下、玄蕃頭 | |||
藩 | 筑後久留米藩主 | |||
氏族 | 摂津有馬氏 | |||
父母 | 父:有馬忠頼 母:磯部氏(養寿院) |
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兄弟 | 長、留理、有馬頼利、有馬頼元 | |||
妻 | 正室:松平頼重の娘・糸姫(青涼院) | |||
子 | 養子:有馬頼元 |
承応元年(1652年)、第2代藩主・有馬忠頼の三男として生まれる。承応4年(1655年)に父が死去したため、家督を継いで藩主となった。寛文6年(1666年)に従四位下、玄蕃頭に叙任する。
藩政においては「仁厚憐血」で学問を好み、家臣団からの信望も厚かったとされているが、寛文8年(1668年)6月24日に死去した。享年17。嗣子が無く、弟の頼元が養子となって後を継いだ。
この若すぎる死には毒殺説もあり、この説に従うならば、頼利は承応4年(1655年)に父と共に船内で殺された。しかし忠頼の実子は4男の頼元しか残されておらず、しかも生まれたばかりの幼児である。このため、摂津有馬家の改易を恐れた家臣団が頼利によく似た子供を頼利であるとして身代わりに擁立したものであった(一説に領内にあった大庄屋の息子だったともされている)。しかし頼元が成長したため、家臣団が邪魔になった身代わりの頼利を殺害したのだとされているのである。
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