性善説
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性善説(せいぜんせつ)とは、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教主流派の中心概念。人の本性に関する考察は古今東西行われてきたが、「性善説」ということばは儒家のひとり孟子に由来する。以下、中国における「性善説」について解説する。
目次 |
[編集] 性説
「性」とは、人の本性やものの本質のこと。字書的にいえば、「性」という字は生まれながらの心という意味である。甲骨文及び金石文には登場しないことから、比較的新しくできた字であることが分かっている。孔子も「性相近し、習相遠し」(『論語』陽貨)と述べて「性」に言及しているが、それが積極的に論じられるようになるのは孟子の時代以降である。「性」についての概念は論者によって大きく異なり、そのことでかえって議論が紛糾したと言ってよい。先天的な本性とする説、後天的に獲得される諸能力とする説、道徳的ものを含む含まない等、多岐に渡る。「性」に関する議論を「性論」という。また「性」についての説を「性説」という。
中国における「性論」の特徴の一つとして挙げられるものに、それが善悪をめぐってなされたということがある。中国では「人とは何か」といった抽象的なテーマは取り上げられず、より具体的に政治意識との関連で語られた。政治と道徳とをどう結びつけるのか、もっと言えば政治権力をもった支配者の行動を如何に道徳的に規定するかということに関心が集中したのである。
なお、今日「性善説」という言葉は「人は本質として善であるため、放っておいても悪を行わないとする楽天主義」という意味で用いられることが少なくないが、本来は正しくない。以下に解説するように、孟子も朱子も、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要であると説いている。
[編集] 孟子の説
孟子が生きた時代は人の本性についての関心が高まり、「性無記説」(性には善も悪もないとする告子の学説)や「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説、「人の中で善悪が入り交じっているのだ」とする諸説が流布していた。これらに対し孟子は「性善説」を唱えた。これは孔子の忠信説を発展させたものとされる。
[編集] 四端の心
孟子の「性善説」とは、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているとする説である。善の兆しとは、以下に挙げる四端の心を指す。なお「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。
- 惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
- 羞悪…不正を羞恥する心
- 辞譲…謙譲の心
- 是非…善悪を分別する心
修養することによってこれらを拡充し、「仁・義・礼・智」という4つの徳を顕現させ、聖人・君子へと至ることができるとする。端的に言えば、善の兆しとは善となるための可能性である。
人には善の兆しが先天的に具備していると孟子が断定し得たのは、人の運命や事の成否、天下の治乱などをあるべくしてあらしめる理法としての性格を有する天にこそ、人の道徳性が由来すると考えたためである。しかしこの考えは実際と照らし合わせた時、大きな矛盾を突きつける。現実においては、社会に悪が横行している状態を説明できないからである。こうした疑問に対し、孟子は以下のように説明する。悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の兆しが曇らされるのだ、と。すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると説いた。
[編集] 「性善説」の必要性
これを簡単に理想主義的なオプティミズムとして片づけることはできない。孟子は何も戦国時代において頻発する戦争や収奪に眼を向けずにただ楽天的だったのではない。覇道がはびこる現実を踏まえつつも、孟子は王道思想を掲げたのであるが、「性善説」はいかなる君主であっても徳治に基づく王道政治を行うことが可能であることを言明するために、道徳的要請から提示された主張であった。諸国遊説において、孟子が君主に王道政治を説いても、そのような政治は聖人しか行えないのではないかという冷ややかな対応に出くわすことが多かった。孟子としては、王道政治実現の可能性の根拠を提示する必要があったのである。よりいえば「性は善であるべき」という説が、王道思想のための必要性から「性は善である」という風に変化させられたと言える。
[編集] 荀子「性悪説」との比較
詳しくは性悪説参照のこと。
孟子より数十年遅く活躍した荀子は、孟子の「性善説」を批判した。この根本には「性」に関する孟子とは異なった定義がある。荀子は「性」を自然そのままの本質と考える。これは荀子が「天」を理法的な存在、あるいは宗教的なものとして捉えず、nature的な自然として理解するからである。荀子が「性」という時、欲望も含んだものとして捉えられている。そして自然そのままの本性を「悪」とした。というのも、人の「性」とその作用である「情」を放任すると、争いなどがおこり社会的混乱を招くからだという。したがって外在する「礼」によって人を矯正・感化する必要があるのだと説いた。しかし孟子「性善説」が悪の起源について矛盾を抱えていたのと同様、荀子の「性悪説」もまた善なる「礼」が何に由来するのかという点において矛盾を内包する学説であった。
ただ孟子・荀子ともに人を道徳的に陶冶しようとする姿勢は共通のものであって、それは思想的に道徳論にとどまるものであった。
[編集] 朱子の説
「性善説」は、その後もずっと命脈を保って中国の倫理道徳言説において中心的な位置を占め続けた。それに特に貢献したのが朱子であり、彼は孟子の説を承けて「性善説」を完成させたといえる。孟子の説は悪を人の外に求めることで、「性善説」と現実とのギャップに一応の説明を付けているが、悪の起源を十分に説明できたとは言えない。朱子はこの点につき、孟子を継承しつつ改良を加え、「性善説」の整合性を高めていった。すなわち性即理というテーゼである。
朱子は「性」を「本然〈ほんねん〉の性」(天命の性ともいう)と「気質の性」と分類することで、孟子の説を訂正しようとした。前者は「極本究源の性」ともいわれて「理」そのものとされ、この「性」は万人が生まれつきもっているものではあるが、それが「気」(万物を構成する要素)によって曇らされ善を発揮できないでいる「性」が後者のそれである。この二つの「性」概念を使って、悪の起源や人に聖人・君子・凡人・悪人といった多様性が生まれることを朱子は説明しようとした。すなわち人が悪に染まるのは、「本然の性」が「気」に覆われており、人によってその度合いが異なるから善人・悪人の差異が生じるのだとした。朱子学の特徴の一つとして、「静坐」や「読書」による修養・教化があるが、これらは「気質の性」を「本然の性」という本来あるべき「性」へとかえすことを目的としたものである。これを「復初」(初めに復〈カエ〉す)という。換言すると、「気」により淀んだ「性」を純化(=修養・教化)することで聖人に至ろうとするものである。
語弊を恐れず、より簡単な例を提示すると、聖人の「性」とは非常に深いにも拘らず湖底まで見通すことができる、澄みきった湖のようなものである。一方それ以外の者の「性」は程度の差はあれ、土砂などによって淀んでいて透明度の低い湖のごときものである。時には大雨といった外的要因によって、一層淀みが増すこともある。これを浄化作用によって、透明度を高めようとすることが「読書」・「静坐」という修養・教化にあたる。
そして朱子が念頭に置く「性」とは、具体的には仁・義・礼・智・信という「五常」と呼ばれる徳であった。この点、孟子とは異なっている。朱子は「本然の性」には先天的に既に「五常」が具わっていると考え、それの動的なものが惻隠・羞悪・辞譲・是非という善的な「情」だとした。たとえば井戸に落ちそうになっている幼子を見かけた時、人は誰しも利害に関係なく、思わず救おうとする(はずだ)。孟子はそれを惻隠の情と呼び、善(仁)の萌芽が人に内在する証左だとしたが、仁そのものが人にあるとはしなかった。しかし朱子はそのような惻隠の情とは、仁という徳(あるいは天理)が発現したもの(作用)だとした。同じ語彙を使用しながら、「性」にそなわっているものが孟子と朱子とでは逆転している点に留意しなければならない。
「性」は「理」である、よって善である、と朱子は定義する。また「性」を純化して聖人に至るべしともする。この考えからいえば、朱子における善と悪とは絶対的な対立関係にあるのではない。善なる「本然の性」の状態を、静かな不偏不倚なものとして朱子はイメージする。逆に悪とは、そうした中庸たる「性」から逸脱し過度に流れた状態(過剰もしくは不足ともに)をこそ言うのである。
[編集] 陽明学の説
[編集] 「性善説」の意義
- 孟子学派が強調して説く「仁義」に、道徳的根拠を与えた。つまり各人のもつ道徳的欲求が覚醒する契機となった。
- 「礼」や法により外からたがをはめ道徳的に矯正しようとする「性悪説」に比べ、人の内面を信じその覚醒を引き出そうとする「性善説」は、支持を広げて儒家の主流派となっていった。
- 「性善説」は、先天的な道徳可能性を認めるため、その中にある種平等主義的なものを内包することになった。
[編集] 関連項目
- 性悪説
- 性三品説
[編集] 参考文献
- 金谷治『孟子』岩波新書、1966、ISBN B000JABJ4W