強姦の歴史
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強姦の歴史(ごうかんのれきし)
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[編集] 古代・中世
強姦の概念の始まりは神話・宗教の世界にまで遡る。ギリシア神話においてゼウスとエウロペ或いはガニュメデスの話も強姦に類似した合意の上の性交を交えた誘拐と表される。仏教では龍樹の透明人間レイプ事件の伝説が有名である。この説話は仏陀とは対照的で、快楽の果てにある臨界点を表現している。
性的暴力は、少数民族や奴隷、先住民、難民、貧困層また大規模災害などによって生まれた社会的弱者に対して行われたり、刑務所や収容施設内、そして戦時下においてしばしば行われてきた。内乱や戦時下では大規模な集団レイプもしばしば発生する。(戦時性暴力) また、非戦時下においても、権力者による性の専横、例として西欧領主の初夜権などがある。
古来、征服された民族の女性の運命は過酷であった。最も有名なのはモンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンとその係累・後裔であろう。帝国による降伏勧告を受け入れず抵抗の後征服された都市はことごとく破壊・略奪・殺戮され、女性も戦利品として王侯・軍隊などの権力者以下にあてがわれた。 世界各地の男性のY染色体を調べた結果、かつてのモンゴル帝国の版図に高率で共通の染色体が検出されたという話さえある(ブライアン・サイクス著『アダムの呪い』参照)(ただこれに関しては、モンゴル帝国以前からシルクロード一帯で勃興・滅亡を繰り返していたと言われる遊牧騎馬民族の西進がもたらした影響を割り引く必要がある)。
古代から中世まで、強姦は女性に対する貞操観念の結果として犯罪として見られた。その結果、処女の強姦は、非処女及び売春婦に対する強姦よりしばしば更に重大な犯罪であった。そのため、純潔が害されないであろうとみなされた女性、身持ちの悪い女性は、いくらかの法において犯罪ではなかった。かつての西欧では強姦や近親姦があってもそれは被害者の問題ではなく、その所有者の問題であった。
西方世界では、キリスト教暦前4世紀のアレクサンドロス軍にも、多数の女性が含まれており、娼婦や女性捕虜は強姦されていたと考えられている。また、クセノポンのギリシア人傭兵部隊の性欲処理の対象には多数の若者や少年も含まれていた。後8世紀以降国家が西欧で分裂し小規模な軍隊が作られた事で、軍による強姦はより散発的に起こるようになった。14世紀以降人口の増加もあり、西洋では傭兵が溢れかえった。国家はそれら傭兵を養うだけの財産がなく強姦する部隊が増加した。これに対し、百年戦争(1337-1453)の頃に強姦犯に有罪を宣告して、実行する基本的な方針が形成された。
カトリック教会の聖職者らの少年へのレイプが古代・中世にどのくらい存在していたのかどうかは不明だが、少なくとも18世紀には深刻な問題として認められていた(『サクラメントゥム・ペニタンツィエ』、1741年)。しかし、21世紀になるまでほとんど表面化しなかった。
[編集] 近代・現代
近代~現代も、戦時下において各国軍隊による敵国女性へのレイプが少なからず発生した。第二次世界大戦以降ではアメリカ、ソ連、ドイツ、日本による大規模な強姦があったとされている(日本のそれについては南京大虐殺、南京大虐殺論争等を参照)。終戦後は、被占領地域において、戦勝国、主にソ連軍(流刑囚)による日本人女性やドイツ人女性へのレイプが多発した。我が国においても米軍に所属する将兵による強姦事件は後を絶たない。特に沖縄県では1972年の本土復帰以降、明るみに出ているだけで120件以上。今なお基地問題で揺れる住民との間に深刻な影を落としている。
ベトナム戦争中、アメリカ軍兵士によるベトナム人女性の強姦、買春も多発し、混血児も多数存在している。また韓国軍兵士やビジネスマンによる、レイプ、買春によって多数の混血児が生まれ問題になっている(数については1千5百~3万と諸説有。また9割は韓国人ビジネスマンとの子との指摘もある)。1998年に当時の金大中大統領はハンギョレ新聞の報道を受けてこれらのベトナム戦争に於ける韓国軍の残虐行為に対する謝罪の意を訪韓中のベトナム首脳に表し、また補償の開始を命じた。また反共の野党ハンナラ党の反対もあって現在も補償は全く進んでいない。 1990年サダム・フセイン軍はクウェート女性を襲い、1991-1995年のボスニアではセルビア人民兵がムスリム女性を、1994年ルワンダではフツ族軍がツチ族女性を、などの事実が存在する。
また、前述したとおり大規模災害の発生にともない治安が一時的に悪化し、被災民、避難民の中の弱者が性的暴力を受ける被害も発生している。被災による精神的ダメージに加え、性的暴力による精神的な障害を受けることになり、さらには災害時のため、被害を訴えることが困難だったり、訴えても、事件立証のためにさらなる苦痛を被害者が負うことになる。
日本では1907年(明治40年)に刑法が制定されたが、その当時強姦罪は娘と妻を性的に家父長の支配下に置こうとするものであった。つまり、女性の性的自由ではなく男性に都合のいい女性の保護という女性差別的な発想があった。現在も強姦の裁判実務では不備が様々指摘される。
アメリカ合衆国ではピュータリアンの植民地でレイプを死刑と定めた。死刑の罪状としてレイプというものがあり、多くの黒人が処刑された。南部を中心に、レイプを死刑とする動きは続いた。だが、1972年にレイプを罪状とする死刑にアメリカで違憲判決が出された。1970年代以来、女性解放運動により社会的情勢・法的態度は変化した。また、1980年代以降認知されてきた男性に対する性的暴行をどう扱うか、という問題に関しては、現在複数の州で様々な形で法改正がなされてはいるが、主に社会的バイアスのためにアメリカ合衆国でもまともな形でケアが存在しているとは言いがたい。
女子高生コンクリート詰め殺人事件などの未成年強姦殺人では少年という壁が問題視される。バッキー事件のようなAV業界による強姦事件も存在する。福田和子らが被害者となった松山刑務所事件など、刑務所内強姦も存在する。尊属殺法定刑違憲事件のように近親姦の問題もある。また、スーパーフリー事件、京都大学アメフト部レイプ事件など、大学生による強姦事件は少なくない。施設内においても恩寵園事件、埼玉児童性的虐待事件、和歌山少年暴行事件など性的暴行事件は後を絶たない。
[編集] 参考文献
- 『強姦の歴史』ジョルジュ・ヴィガレロ 著 藤田真利子 訳 ISBN 4-87893-322-4