平塩寺
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平塩寺(へいえんじ)は、山梨県西八代郡市川三郷町(旧市川大門町平塩岡)にあった寺院。山号は白雲山。古代甲斐国における天台宗仏教の拠点で、市川大門村は平塩寺を中心に門前町として発展した。東塔院は阿弥陀如来、西塔院は薬師如来が本尊であったという。
町域中部に位置。平塩寺跡地のある平塩岡は、芦川沿いの河岸段丘に形成された東西に延びる丘陵。京都伏見の仁和寺子院である法勝院領巨摩郡市河荘内の南部にあたる。
天平勝宝7年(755年)に行基を開山、直弁を開祖に開創されたと伝わる。平安時代には甲斐へも真言宗や天台宗などの新仏教がもたらされ、延暦年間に法相宗から天台宗に改宗したという。甲斐国において天台密教は平塩寺のほか柏尾山大善寺などを拠点として広まる。大治5年(1130年)には常陸国から武田義清(武田冠者)・清光が市川荘に流罪されているが、『新編武蔵国風土記』によれば義清の兄弟にあたる覚義が近江国園城寺から平塩寺の主僧になっており、甲斐源氏の土着と勢力拡大に伴いさらに拡大する。『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180年)に源頼朝の挙兵に応じた甲斐源氏の一族である安田義定の勢に加わった市川氏がおり、平塩寺の大檀那であるとも考えられている。
平安時代末期には天台密教が衰退し、『甲斐国志』によれば承久2年(1220年)に天台寺院から真言寺院になったという。一条信長が武田八幡宮へ奉納し現在は大善寺所蔵の大般若経をはじめ、大月市の花井寺所蔵品、平塩寺旧蔵で現在は笛吹市境川町の実相寺所蔵品などの大般若経は平塩寺において法善寺や大善寺などの真言僧によって写経されたものである。義清の孫にあたる逸見久義の子空阿などの真言僧を輩しているが、後に甲斐への臨済宗布教に貢献する夢窓疎石は幼少時の弘安元年(1278年)にはが母とともに市川へ移り、平塩寺で空阿に学んでいる。
天正10年(1582年)には織田信長による甲斐侵攻で焼失し、廃寺となっている。『甲斐国志』によれば、諸仏を安置するための諸堂が再建されているが、平塩寺の廃寺後には集落の中心地も台地上から北の芦川沿い氾濫原の平地に移転しており、諸堂も周辺に散在している。