崖山の戦い
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崖山の戦い(がいざんのたたかい)とは1279年3月19日(祥興2年2月6日)に中国の広州湾で、元の軍勢が旧南宋の海軍を破った戦いである。この戦いで、南宋は敗北、衛王は宰相陸秀夫ととも入水し、名実ともに南宋は滅亡した。
[編集] 概要
クビライ率いるモンゴル人の王朝元は1276年に南宋の首都臨安を落とし、南宋皇帝の恭帝は降伏した。これで、南宋は滅亡した。
しかし、陸秀夫、文天祥、張世傑や陳宜中などの一部の南宋に遺臣たちは、臨安陥落と同時期に南宋の皇子を皇帝に奉戴し、元に対する抵抗運動を続けた。元軍はそれを破っていく一方で、泉州の実力者で海上交易で富を蓄えた蒲寿庚を取り込むなど、華南地域を支配下においていった。
次第に江南から広東へと追い詰められた旧南宋軍は船団で海上を漂流しながら、抵抗を続け現在の香港周辺にある、涯山という当時何もなかった島に砦と行宮を構築し、徹底抗戦の構えを見せた。一方元軍は蒲寿庚から船舶及び熟練の水夫の提供を受けており、不慣れな海上でも旧南宋艦隊を追跡し戦いを有利に進めていった。元側の記録によると、旧南宋艦隊は、1,000隻の大型船をがっちりと繋ぎ合わせ、防火用に船体外装に泥を塗り、敵が近づけないよう長い木材を縛り付け防御網とし、油をそそいで火攻めを図る元軍を破ったそうである。
しかし1279年2月なかば、長い消耗戦に疲れ切った旧南宋軍は敗走した。やがて絶望した家臣や幹部たちが次々と入水していく中、陸秀夫は幼帝に「大学」の講義を船内でしていた。しかし2月6日の昼すぎ頃には敗北を悟り、皇帝を抱いて入水した。これをきっかけに戦闘は終結。元軍の勝利が確定した。
[編集] その後
陸上で抵抗運動をしていた文天祥はこの戦い以前の1278年に元に捕縛され大都(今の北京)に護送された。元王朝は優れた文人である彼を登用するために説得を繰り返したが、彼は頑なに拒否し続け獄中で『正気の歌』を詠みつつ、1282年に刑死した。
このことによって元の中国統一が完了した。
[編集] 関連項目
- 田中芳樹:小説『海嘯』でこの戦いを取り上げる。