崇宗 (西夏)
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崇宗(すうそう、1084年 - 1139年)は西夏の第4代皇帝(在位:1086年 - 1139年)。姓は李、名は乾順。西夏恵宗の子、廟号は崇宗、諡号は聖文皇帝。
3歳で即位。当初は、先代に続いて梁氏が実権を掌握し、その専横による弊害で政治腐敗が進んだ。さらに軍事力も衰退し、北宋が機に乗じて国内に侵入、西夏軍は敗退している。1099年、16歳で親政を始めると、梁氏一族を誅殺。また官僚制度を整備、賦役を軽減するとともに、農業振興として水利事業に着手するなどの改革を行い、西夏の国力を充実させ、経済的、政治的にも大いに発展した。
またこの時期は宋、遼の衰退期であり、崇宗は遼と同盟を結び宋へ侵攻、その版土を拡大し、また金の攻撃を受けた遼の天祚帝が亡命を求めた際には、この要求を拒絶し、金と協力して遼を滅亡させ、河西千余里の地を領域に組み込むなど、外交的にも大きな功績を挙げたる。
在位54年で死去。中興の英主として評価されている。
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