島津光久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島津光久(しまづ みつひさ、元和2年6月2日(1616年7月15日) - 元禄7年11月29日(1695年1月14日))は、薩摩藩第二代藩主で、初代藩主島津忠恒(家久)の子。実母は薩州家・島津忠清の娘(一説、小西行長の遺腹の子とも)、養母は島津亀寿(島津義久の三女)。正室は島津家家老・伊勢貞昌の孫娘(曹源院殿)だったが、彼女が万治元年6月11日(1658年7月11日)に早世した翌年には京都の公家・平松時庸の養女(実父・交野時貞)(陽和院殿、寛永15年2月3日(1638年3月18日)~正徳元年8月12日(1711年9月24日))を継室としている。子は綱久、入来院重矩、満(島津久雄室)、鶴(織田信盛室)、島津久房(島津重年の外祖父)など19男19女がいる。
[編集] 経歴等
寛永元年(1624年)に徳川幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永14年(1637年)、島原の乱勃発時に父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだために実際には島原の乱に参加することはなかった。
内政では財政の立て直しのために家老・島津久通に命じて寛永17年(1640年)に長野(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発する。しかし、徳川幕府の妨害により寛永20年(1643年)には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦2年(1656年)であった。光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発の他、新田開発、洪水対策など、産業振興による収入源の確保が基本政策となった。
また光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。
その後、光久の長命もあって貞享4年(1687年)隠居して孫・島津綱貴に家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている。
鹿児島の名園・仙巌園はこの光久の命によって築かれた物である。また鹿児島県の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる[1]。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
|
|
|