岸和田城
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岸和田城 (大阪府) |
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模擬天守 |
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通称 | 猪伏山城、千亀利城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 複合式層塔型5重5階(1619年改) 現在:模擬天守(1954年再) |
築城主 | 和田高家 |
築城年 | 1334年 |
主な改修者 | 小出秀政 |
主な城主 | 小出氏、岡部氏 |
廃城年 | 1871年 |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | 大阪府史跡 |
再建造物 | 模擬天守、櫓・門 |
位置 | 北緯34度27分31.74秒 東経135度22分14.81秒 |
岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にある城。大阪府指定史跡。別名を猪伏山城(いぶせやまじょう)、千亀利城(ちきりじょう)などともいう。
目次 |
[編集] 概要
和田高家の創建当初は、現在の岸和田城跡から約500m東にあったといわれており、現在の城跡付近には古城という地名が残っている。その後、羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとした。
松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。文政10年(1827年)に天守を焼失。以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却された。
[編集] 歴史・沿革
- 建武元年(1334年) - 楠木正成の甥・和田高家によって築城される。
- 天正13年(1585年) - 豊臣秀吉の家臣・小出秀政が3万石で入封し本格的な城として改築され、5重5階の天守も建造された。
- 元和5年(1619年) - 小出氏転封後は、松平康重が入城して総構えと城下町を整備した。
- 寛永17年(1640年) - 摂津高槻城より岡部氏が入城し、以後岡部氏13代の居城となる。
- 文政10年(1827年) - 天守が落雷のため焼失。以降は再建されなかった。
- 明治4年(1871年) - 廃城とされる。
- 昭和29年(1954年) - 現在の3重の模擬天守が再建された。
[編集] 構造
[編集] 天守
天守は、付櫓を付属させる複合式と呼ばれるもので、板張りの壁面であったと見られている。正保年間に幕府へ提出された泉州岸和田城図、いわゆる正保城絵図では、層塔型で板張りの天守が描かれている。元和5年(1619年)に改修または組み換え等の改変を受けたといわれており、それ以前の天守に関しては詳しく分かっていない[1][2]。
[編集] 犬走り
現存する内堀石垣の下部に周堤帯が存在する。これを犬走りと呼ぶ。城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていない。脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力である。
[編集] その他
- 岸和田の地名
- 岸和田という地名の由来はいくつかあるがそのうちの一つに、元々岸という地名であったこの地に和田氏が入り、岸の和田氏と呼ばれたことから岸和田となったという説がある。
- 岸和田だんじり祭
- 岸和田城天守閣で結婚式
- 岸和田城の天守閣で人前結婚式を挙げるプランを岸和田市観光振興協会が主催している。運営と企画は泉佐野市のホテルサンルート関空。
- 岸和田市出身のお笑いコンビ・シンクタンクのタンクも、ここで挙式を挙げたことがある。