寇準
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寇準(こうじゅん、961年 - 1023年10月24日)。字は平仲。諡は忠愍。華州下邽の人。北宋の大臣。
性格は剛直で知られ、太平興国5年(980年)、進士に及第。淳化5年(994年)には参知政事となり、真宗の即位後は工部、刑部、兵部で職を歴任する。景徳元年(1004年)には同中書門下平章事(宰相)の職に就く。同年冬、契丹が聖宗の親征により軍を南下させ河北の瀛洲などを包囲し、北宋の朝廷は狼狽し王欽若らが南遷を主張する中、寇準は真宗の親征を主張し、親征が実現。澶州で戦線は膠着状態になり澶淵の盟が結ばれる。景徳2年(1005年)に中書侍朗と工部尚書を兼任する。景徳3年(1006年)に王欽若の讒言により罷免される。天禧元年(1017年)に宰相に復職するも、天禧4年(1020年)、丁謂・銭惟演らの讒言により宰相を追われ、雷州司戸参軍に左遷され、任地で没した。1034年に名誉回復された。
小説『楊家将演義』では、楊一族を助けて奸臣潘仁美を獄に下す忠臣として描かれている。
[編集] 鬚の塵を払う
『北史 冦準伝』より、宰相時代の冦準が自分の弟子である副宰相の丁謂と連れ立って会食した。そのさい、丁謂が冦準の鬚についていた食べ残しをぬぐったところ、余りにも見え透いたご機嫌取りに呆れた冦準から逆にたしなめられて恥じ入ったという。転じて、目上の人へのあからさまなおべっか・追従をさす故事となった。ちなみに丁謂は、後に銭惟演とともに讒言で師匠の冦準を失脚に追いやっている。