安部信盛
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安部 信盛(あんべ のぶもり、1584年(天正12年) - 1674年1月3日(延宝元年11月27日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で、武蔵国岡部藩初代藩主。
安部信勝の長男。母は水野忠重の娘。正室は徳川家康の養女(保科正直の娘)。子は安部信之(長男)、安部信孝(次男)、安部貞信(三男)、安部信政(四男)、安部信秀(五男)、安部信重(六男)、安部信直(七男)、娘(小出有棟正室)、娘(向井忠宗室)、娘(服部正勝室)、娘(仙石久信正室)。官位は従五位下、摂津守。
[編集] 経歴
遠州浜松出身。安部氏はもともと今川氏の家臣であったが、今川氏が武田氏の侵攻で没落したため、祖父の安部元真の代に徳川家康に仕えるようになっていた。慶長5年(1600年)、父・信勝が死去したため、信盛が家督と5,200石の所領を継承する。同年の関ヶ原の戦いでは本多正信隊に属して下野国小山にまで参陣した。慶長10年(1605年)には徳川秀忠の将軍宣下のための上洛に従っている。
慶長19年(1614年)からの大坂の役には冬、夏とも参陣し、その功績により元和2年(1616年)には御徒頭に任じられた。元和5年(1619年)、秀忠の上洛に従い、このとき摂津守に任じられた。元和6年(1620年)、秀忠の娘・和子の入内に参列する。寛永13年(1636年)、4,000石を加増され、合計9,200石となった。慶安2年(1649年)、大坂城番となり、このときに摂津において1万石を与えられた。これにより1万9,200石の大名となったのである。寛文2年(1662年)に隠居し、家督を長男の信之に譲った。
延宝元年(1673年)11月27日、死去。法名は竜徳院妙法性都。墓地は埼玉県深谷市の千手寺。領地は1万石以上であったが、武蔵・摂津・三河・下野に分散していた。
尚、安部であるが、「あべ」ではなく「あんべ」と読む。
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