安藤昌益
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安藤昌益(あんどう しょうえき、元禄16年(1703年)-宝暦12年10月14日(1762年11月29日))は、江戸時代中期の医者・思想家。秋田藩出身。号を確龍堂良中。
目次 |
[編集] 経歴
陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し開業医となった。延享元年(1744年)8月の八戸藩の日記には、櫛引八幡宮の流鏑馬の射手を治療したことが記録に残されている。同年に八戸の天聖寺にて講演を行う。宝暦8年(1757年)にも同寺で討論会を開いている。その後、出羽国大館に帰郷。弟子の神山仙確は八戸藩主の側医。
身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張した。徹底した平等思想を唱えている。 特に著書『自然真営道』の内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じる考えとされているが、無政府主義(アナキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられる。またこの書の中で安藤は日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判した。発見者・狩野亨吉をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをもうならせたという。
後に在日カナダ大使であるH(ハーバート)・ノーマンの手により、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』が記されることで周知の人物となった。