安藤太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安藤太郎(あんどう たろう 1910年(明治43年)1月3日-)は、日本の実業家。元住友銀行副頭取、現住友不動産相談役。
目次 |
[編集] 来歴
安藤太郎は、1910年1月3日、安藤源治郎の長男として生まれた。仙台二中、旧制水戸高校を経て、1934年(昭和9年)東京大学法科を卒業して、住友銀行へ入社。住友銀行では、東京副支店長、東京事務所次長、本店営業部次長、そして銀座・日本橋の各支店長を歴任。1959年(昭和34)年6月には東京事務所長、同11月取締役に就任する。1962年(昭和37年)4月に常務へ昇格、1967年(昭和42年)5月には専務、1972年(昭和47年)5月副頭取に就任する。副頭取は1974年(昭和49年)5月まで2年1期務め、その後住友不動産社長となる。2008年(平成20年)6月27日付で健康上の理由で取締役を退く予定だが、相談役にはとどまる。
[編集] 都銀懇話会の三羽烏
安藤太郎が、金融界で注目されるようになったのは、東京事務所所長時代である。当時住友銀行は大阪が本店所在地であり、銀行のみならず、住友系企業グループの経営基盤は関西が多かった。その意味において住友銀行の東京事務所は、東京を中心とする政財界の動きはもとより、各方面のさまざまな情報を収集する「東京探題」として重要な役割を担っていた。いわば東京事務所は、秘書室と広報室と総務部をいっしょにしたような機能を持っていたわけである。安藤は常務時代、「都銀懇話会」での活躍が特筆される。当時、都市銀行がしょって立つ経営基盤の戦略は、すべて「都銀懇話会」で生み出されたものといっても過言でなく、都銀の経営ビジョンづくりのタスクフォースとして注目された。当時「都銀懇話会」で「三羽烏」と呼ばれていたのは、富士銀行の松沢卓治常務、三菱銀行の黒川久専務、それに安藤であった。松沢は後に、富士銀行の会長、黒川は副頭取から三菱油化社長に転出した。
[編集] 家族
安藤太郎の妻満寿子は、山口県旧家の二代目百合本安太郎の二女。満寿子の姉香代子は元福岡県弁護士会長の白川慎一に、妹の直子はダイワ精工顧問秋庭正義に嫁いでいる。秋庭正義の叔父にあたる、秋庭義衛の妻千重子は、旧子爵、第一銀行頭取渋沢栄一の孫娘で旧子爵、大蔵大臣や貴族院議員、東京市長を歴任した阪谷芳郎の四女。したがって阪谷芳郎の孫娘らを娶っている大島寛一(元農中金副総裁)や経団連会長植村甲午郎の長男植村泰恵(東大理学部教授)らは甥にあたる。
安藤太郎の長姉みゆきの女婿、安藤秀夫は、日本出版販売相談役相田岩夫の実弟である。相田岩夫の妻静は、元内閣総理大臣浜口雄幸の二女。浜口雄幸の長男浜口雄彦(元国際電々会長)の二女淑は、皇后美智子の兄である正田厳に嫁いでいる。