宇文護
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宇文護(うぶん ご、515年 - 572年)は中国・北周の皇族、政治家。代郡武川の人。北周の始祖・宇文泰の甥で、その死後に権力を握ったが、武帝に暗殺された。晋国公に封ぜられたことから晋公護と呼ばれることもある。
[編集] 生涯
おじである宇文泰配下の将として功績を挙げ、宇文泰が西魏の中心人物になった頃には重臣の一人になっていた。556年に宇文泰が死去すると、その子供たちが幼かったことから、遺命によって後継の宇文覚(後の孝閔帝)を補佐することになった。しかし実質は専横しているようなものであった。西魏の恭帝から宇文覚へ禅譲させる工作を進める中で、専横に反発した重臣の趙貴と独弧信が謀反を企てるが、事前に察知して両名とも殺害し、独裁体制を確立させる。ほどなく孝閔帝も宇文護の専横ぶりに反発するが、557年、廃位の後に殺害され、傀儡を宇文毓(明帝)へとすげ代えられた。
この後、北周と北斉との間で戦いが起きるが、軍略にはさほど恵まれていなかったようで、斛律光や高長恭の名を上げさせることになってしまう。
560年、明帝が鋭敏なのを見て毒殺し、その遺命によって宇文邕(武帝)を擁立する。武帝は先帝2人とは違って愚鈍さを見せていたので、軍権を掌握していた宇文護はすっかり安心していた。しかしその愚鈍ぶりは演技で、裏では近臣たちと暗殺計画を練っていた。
572年、長安に戻って武帝との謁見の際、皇大后と2人きりになったところ、武帝に背中を笏で殴打され、倒れたところを近臣によってとどめをさされた。その一党は粛清されたという。
[編集] 評価
北周は孝閔帝から始まり明帝へと続くが、実権は宇文護に握られており、実質的な君主は宇文護だった。史書には暴虐とあり、宇文護とその息子たち、配下は好き勝手に暴力をふるい、財貨を貪ったとある。政権を独裁し、皇帝2人を殺したことから評判が悪いが、政治家としては有能で、宇文泰の路線を引き継いで諸制度を整備、政治を安定させるなど、北周への貢献は多大なるものがあった。宇文護時代の政治によって、最初は劣っていた北斉との国力差が逆転することなる。
ただし、孝閔帝も明帝もひとかどの人物であり、それに対して武帝の息子の宣帝は暗君で、北周滅亡の要因を成してしまう。この事から考えると、結果論ではあるが貴重な人的資産を無為に損耗させた感がある。