孝子内親王
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孝子内親王(たかこないしんのう、慶安3年10月11日(1650年11月4日) - 享保10年6月26日(1725年8月4日)は、江戸時代の皇族。後光明天皇の第一皇女。生母は右近衛中将庭田重秀の女、典侍庭田秀子。
慶安3年(1650年)、後光明天皇の第一皇女として誕生。女一宮と称される。誕生日については10月10日、10月11日、10月15日とするものがある。
承応3年(1654年)、父後光明天皇が22歳の若さで崩御。しかし天皇の子女は孝子内親王のみで皇嗣たる男子がなかったため、急遽異母弟の高貴宮(識仁親王、のちの霊元天皇)を皇嗣とし、高貴宮が成長するまでの中継ぎとして同じく異母弟の花町宮良仁親王が後西天皇として即位した。
しかし孝子内親王は後光明天皇の唯一の遺児、嫡流の皇女として重んじられ、天和3年12月(1684年1月)に内親王宣下、次いで宝永5年(1708年)には一品に叙されている。また孝子内親王は出家して寺社に入ることもなく、生涯独身を通した。
さらに享保10年(1725年)、薨去に際しては、准三后宣下、次いで女院号宣下がなされて礼成門院(れいせいもんいん)と称された。天皇の后妃、生母以外での女院号宣下は室町幕府3代将軍足利義満の正室、日野康子(北山院)以来約320年ぶりで、現在に至るまで孝子内親王が最後の例である。