奉安殿
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奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前戦中にかけて各地の学校で、天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物のこと。御真影自体は大正~昭和期にかけて下賜されたため、奉安殿の成立もその時期と推測される(小学校の奉安殿建築は昭和10年前後に活発化)。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。
四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。
当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の美談がいくつか伝えられている。 このため、さらに万全を期すために、校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められていった。前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。
建築物としてみると、実に様々なバリエーションが存在する。ギリシャ建築風や鉄筋コンクリート造り、レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、意匠を凝らした物が多い。小形ながら頑丈無比の耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬよう荘厳重厚なデザインになるようにとの苦心の跡が垣間見えるようである。また実際、昭和8年には奉安殿の建築デザインに関するコンペも開かれている。ただし、このような頑丈な小建築には「湿気がこもる」という欠点があり、御真影に染みを作ってしまい学校が始末書を提出する羽目に陥ることもしばしばあった。
昭和20年12月15日、GHQの神道指令のため、奉安殿は廃止となった。奉安殿の多くは戦後解体・もしくは地中に埋められ、御真影も全て奉還された訳ではない。しかしながら、解体を免れた奉安殿は現在でも全国各地に少数ながら残っており、倉庫として使われていたり、荘厳な外観を生かして神社や納骨堂に転用されていたりする。また沖縄の旧美里尋常高等小学校の奉安殿は半壊状態ながら、「戦争遺跡」として文化財に登録されている。戦前建築の古い校舎・講堂を持つ学校では、校舎内に設けられた「奉安庫」が残る所もある。