失踪者 (小説)
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『失踪者』(しっそうしゃ、DER VERSCHOLLENE)、または『アメリカ』(AMERIKA)は、フランツ・カフカの小説。1912年から執筆を開始し、1913年に原型を発表。その後断続的に執筆を続けたが、1914年を最後に続編が書かれることなく未完に終わった。カフカ死後の1927年、『アメリカ』の表題で刊行。
目次 |
[編集] 概要
本作の執筆が開始されたのは、断片が筆記されていた日記の日付によると1912年9月26日であると言われている(ちなみに「判決」は同年同月の22日夜~23日朝にかけて執筆された)。その後「変身」を挟むなど空隙があるものの、1913年1月頃までは執筆を続けていた。しかし同3月には、完成度に疑問を持つようになったためか執筆を中断し、第1章を独立させ「火夫」という短編として発表した。これは1915年にフォンターネ文学賞を受賞し、生前のカフカが獲得した数少ない栄誉を齎した。その後1914年8月、10月に断片を執筆し推敲と逡巡を繰り返すものの、結局そのまま未完となった。そしてカフカの死後1927年、遺稿を整理していた友人のマックス・ブロートの手によって「審判」(1925年)、「城」(1926年)に続く「孤独の三部作」最終作として、「アメリカ」の表題で刊行された。
本作はカフカの小説としては珍しく、少年を主人公とした冒険小説である。また「孤独の三部作」の主人公は「審判」のヨーゼフ・Kと「城」のKが共にカフカを想起させる正体不明の人物であるのに対し、この「失踪者」では「カール・ロスマン(Karl Rossman)」という具体的な名前が与えられている(ただし「孤独の三部作」とはマックス・ブロートが命名した分類で、カフカ自身の意図とするものではない)。故郷でのいざこざからアメリカへ追放されたロスマンが、理不尽な事態に直面しながらアメリカを放浪し、希望を抱いた場面で未完となっている。なおカフカは生涯アメリカへ渡航した経験はなく、本作で描かれたアメリカの姿は全てカフカの卓抜たる空想の産物である。
[編集] タイトル
本作の表題は1927年の刊行以来、長く「アメリカ」として世界的に知られていた。この命名者はブロートであり、タイトルを知らされていなかった彼が便宜上名付けたものとされている。しかしその後、カフカの日記や書簡の中に本作の表題を「失踪者」としている記述が発見され、カフカ本人の意志としては本作の表題は「失踪者」であったことが明らかとなった。しかしその後もタイトルは「アメリカ」のままで刊行され続け、全集等にも同名のまま収録されていた。この「アメリカ」では、カフカ自身が副題をつけていなかった最後の断片が、ブロートによって「オクラホマの野外劇場」という名の最終章としてまとめられた。これは作品が一応の完結を見せていることをアピールする為であったと考えられており、その結末(ロスマンがアメリカの地で新たな希望を見出す)もあって本作の表題は「アメリカ」のままとされていたものと考えられている。
しかし近年、やはりカフカ本人の意志を尊重するべきという考え方が広まり、日本では2002年に池内紀によって「失踪者」の表題で新訳が刊行された。ただし「アメリカ」の訳出版も現在でも刊行されており、比較が可能である。なお「失踪者」では、「アメリカ」からは削られた断片(第7章の後に続く記述)も収録されている。
なお主人公ロスマンの年齢は草稿では17歳、清書では15歳、最初に出版された短編「火夫」では16歳となっており、「アメリカ」の冒頭は「火夫」の原稿をそのまま用いたため16歳、「失踪者」では草稿に合わせて17歳となっている。
[編集] 登場人物
- カール・ロスマン:ドイツ人。故郷を追い出されアメリカへやってきた。
- 火夫:ロスマンが乗った汽船の従業員。待遇改善のため、ロスマンと共闘する。
- エドワード・ヤーコブ:ロスマンの伯父。ロスマンを家へ迎え入れる。
- ポランダー:ヤーコブの友人。ロスマンを自宅へ招待する。
- クララ:ポランダーの娘。ロスマンをからかう。
- グリーン:ヤーコブ、ポランダーの友人。ロスマンに手紙を渡す。
- ロビンソン:アイルランド人。ドラマルシュとコンビでロスマンと行動を共にする。
- ドラマルシュ:フランス人。ロビンソンとコンビでロスマンと行動を共にする。
- 調理主任:ドイツ人。「ホテル・オクシデンタル」の従業員で、ロスマンを雇い入れる。
- テレーゼ・ベルヒトルト:「ホテル・オクシデンタル」の従業員。ロスマンを信じる。
- ジャコモ:「ホテル・オクシデンタル」でのロスマンの同僚。
- ブルネルダ:肥満体の歌手。ドラマルシュと同棲している。
- ヨーゼフ・メンデル:苦学生。ブルネルダたちの隣人で、彼女たちを嫌っている。
- ファニー:ロスマンの旧友。オクラホマ劇場で天使のトランペットを奏でている。
注意:以降の記述で物語・作品に関する核心部分が明かされています。
[編集] あらすじ
- 故郷のドイツで年上の女中に誘惑され、子供まで宿してしまったカール・ロスマンは両親の手でアメリカへ追い払われた。ニューヨーク港へ汽船が到着し、下船しようとしたところ傘を忘れたことに気付いたロスマンは、慌てて取りに戻る。そこでこの船の火夫に会い、話を聞くうちに彼がこの船で屈辱的な立場に置かれていることを知る。義憤に駆られたロスマンは船の上役に勢い込んで訴え出た。しかし火夫は日頃の勤務態度が良くない上に、興奮して自分の主張をまとめられない。その時、1人の紳士がロスマンに語りかけた。彼エドワード・ヤーコブは上院議員であり、ロスマンの実の伯父であった。ヤーコブはその場をまとめ、ロスマンを引き取ることになった。
- 第二章「伯父」
- 裕福な伯父の下で、ロスマンは何不自由ない暮らしに浸っていた。伯父は大きなオフィスで仲介業を経営しており、ロスマンの教育にも非常に熱心であった。ロスマンは英語に続いて、伯父の知己であるマック氏から乗馬を習うことになった。ある日、ロスマンは伯父の取引相手の銀行家、ポランダー氏に自宅へ招かれる。しかし伯父は何故か認めようとはしない。ポランダー氏の懇願もあって、結局一晩がけで出かけることになったが、ロスマンは伯父が気懸かりだった。
- 第三章「ニューヨーク近郊の別荘」
- ロスマンとポランダー氏は、自宅玄関でポランダー氏の愛娘クララの出迎えを受けた。クララはグリーン氏が来宅していることを告げる。ポランダー氏は憤慨するが、4人で夕食を囲むことになった。食事の後、ロスマンはクララに部屋へ案内されるが、ふとしたことから掴み合いの喧嘩になってしまう。しかしクララはレスリングの心得があり、ロスマンは押え付けられてしまった。クララの部屋へ行く気が起こらず、邸宅を徘徊するロスマン。ポランダー氏とグリーン氏の下へ行き「伯父の為にすぐに帰りたい」と言う。しかしグリーン氏に「12時になったら帰らせてあげる」と言われ、ロスマンは怒るが時間までクララの部屋へ行くことになる。乗り気のしないまま、クララに習いたてのピアノを聞かせるロスマンに、冷やかし半分の拍手が降り注いだ。相手はマック氏で、彼はクララの婚約者だった。時間が来てグリーン氏に会うと、彼は「12時にロスマンに渡すこと」と書かれた伯父からの手紙を差し出した。そこには、自分の意志に背いたロスマンを追い出すと書かれていた。ロスマンはトランクと傘を手に、当てもなく夜の街へ飛び出した。
- 第四章「ラムゼスへの道」
- しばらくして、ロスマンは食堂を兼ねた安宿を見つけた。そこへ泊まることにするがその部屋は相部屋で、既に先客がいた。アイルランド人のロビンソンとフランス人のドラマルシュである。朝になり、宿を出た三人はバターフォードの農場手伝いか、カリフォルニアの砂金洗いの仕事を求めて旅を共にする。夜になり、野宿をすることになった。近くの「ホテル・オクシデンタル」で食料と酒を調達するよう言われたロスマンは、ホテルへ向かう。親切な従業員の女にホテルへ泊まるよう誘われるが、ロスマンは断って外へ出る。しかし三人は喧嘩になってしまい、ロスマンは1人でホテルへ行くことにする。
- 第五章「ホテル・オクシデンタル」
- ホテルに着くと、ロスマンは先ほどの従業員で同国人の調理主任から、エレベーターボーイになるよう誘いを受けて承諾した。タイピストのテレーゼとも仲良くなり、このラムゼスの町でロスマンの新生活が始まった。ロスマンはエレベーターボーイの仕事を巧くこなす。テレーゼや同僚のジャコモらと楽しいひと時を過ごし、1ヵ月半ほどが経った。ある日、隣のエレベーターの担当が姿を見せず、ロスマンは業務に忙殺されていた。
- 第六章「ロビンソン事件」
- そこへロビンソンがやってきた。彼は小洒落た身なりをしているが酒の臭いがした。酔って纏わりつくロビンソンは、ロスマンに金を貸せという。ロスマンは二度とここへ来ないことを条件に、その日のチップを渡そうとした。その時ロビンソンは体調を崩して嘔吐した。ロスマンは外へ連れ出そうとするが、ロビンソンは歩けない。やむを得ず代理を立てて持ち場を離れたロスマンは、エレベーターボーイたちの寝室にロビンソンを担ぎこんだ。ロスマンは持ち場へ戻ると、自分の不在がボーイ長に露見したことを知らされた。事務室へ行くと、ロスマンはボーイ長に馘首を宣告される。さらに門衛主任にも難詰され、調理主任やテレーゼにもロスマンの失態が伝えられた。ロスマンを信じる二人だが、寝室のロビンソンが大暴れをしたことが伝わってきた。さらにロスマンの立場は悪くなり、クビが決定する。袋叩きにあって怪我だらけのロビンソンを連れて、ロスマンはホテルを出た。
- 第七章「隠れ場所」(「アメリカ」のみに付けられた章題)
- ロスマンとロビンソンはドラマルシュのアパートへやってきた。彼はとても高い部屋に住んでおり、二人を迎え入れて同棲相手のブルネルダに引き合わせた。彼女は極度の肥満体で、部屋で寝そべっていた。とても我儘な性格だが、ドラマルシュは巧くあしらっている。ロビンソンはロスマンにこれまでの経緯を語った。二人で物乞いをした相手がブルネルダで、ドラマルシュは巧く取り入ったという。ロビンソンは温情で使用人として生活していた。怪我をしたロビンソン代わりに、ロスマンも使用人として生活することになった。その夜、判事選挙の候補者演説が行われていた。お祭りのような騒ぎにロスマンは惹きつけられた。しかしブルネルダに逆らったことから、ロスマンは爪弾きにされる。夜中、隣の部屋の学生メンデルと話し合い、学業と生活の両立の苦労を知らされる。結局、今すぐ働くべきだとロスマンは決断した。
- 7-1(「アメリカ」未収録の一節)
- ロスマンはロビンソンに起こされる。ドラマルシュと一緒に、我儘放題のブルネルダを宥めながら3人がかりで彼女の入浴を手伝う。入浴後の身づくろいに際しても、ブルネルダに怒鳴られるロスマンたち。ロスマンは投槍に朝食の準備をするが、かえって手際がいいとブルネルダに誉められた。ロスマンはご褒美として、一握りの菓子をもらった。
- 7-2(「アメリカ」未収録の断片)
- ある朝、ロスマンはブルネルダを病人用の手押し車に乗せて玄関を出た。人目につかないよう、早朝の出発となった。ブルネルダを灰色の布で包んで姿を隠すが、警官に見咎められる。身分証明を見せてその場を凌ぐが、通行人も興味深そうに覗いてくる。中身はリンゴだと言い張り、ロスマンは先を急ぐ。やがて二十五番地の建物が見えてきた。管理人に会い、ロスマンはほっと一息をついた。
- 第八章「オクラホマの野外劇場」(「アメリカ」のみに付けられた章題)
- ロスマンは街角でポスターを見かけた。そこには、オクラホマ劇場がクレイトンの競馬場で団員を募集する旨が書かれている。報酬は一切記載がないが、ロスマンは「条件不問」の文言に惹かれる。交通費を勘定していると見知らぬ紳士が肩を叩き、クレイトン行きを励ましてくれた。ロスマンは地下鉄でクレイトンへ向かう。競馬場の入り口では何百人もの女たちが、白い天使の出で立ちでトランペットを鳴らしていた。だが聴衆はあまりおらず、ロスマンは妻と乳母車の子供をつれた中年男性に話を聞くが、やはり応募者はほとんどいないという。男の妻に採用手続きの場所を確認するよう依頼され、舞台へ上がったロスマンは天使の1人に声をかけられる。それは懐かしい女友達のファニーだった。再会を祝し、ロスマンはファニーのトランペットを借りた。周りは好き勝手に吹いている中で、ロスマンは上手に演奏できた。男の楽団もいることを聞くが、ファニーは配属されても会えないかも知れないという。オクラホマ劇場は範囲が見えないほど大きな世界一の大劇場だというのだ。採用場所が審判席であることを教えてもらい、ロスマンは人事主任に会う。家族連れの男も迎え入れ、採用面接が始まった。ロスマンは身分証を持たず、技術者として名乗り出る。しかし技術者「志望」であることが分かると、別の窓口へ回される。さらに別の窓口へ回され、結局「ヨーロッパの中学卒」窓口で採用となった。ロスマンは担当の主任に「ネグロ(黒人の意味)」と偽名を名乗る。正式に採用が決まり、外へ出ると先ほどの家族連れも採用が決まったと知らせてくれた。ロスマンは自分の隊長に前職は事務所にいたこと※、そこでの仕事には満足していなかったことを伝えた。面談の結果ロスマン(ネグロ)は「技術労働者」に決まった。ファニーに伝えようとしたが、天使たちは既に次の場所へ出発したという。採用者に豪華な会食が振舞われ、その1人が長々と答弁を述べていた。その宴席で、ロスマンはジャコモに再会した。彼はエレベーターボーイとして採用されたという。その時人事主任が壇上に現れ、オクラホマへの出発を告げた。採用者たちは急いで駅へ向かい、列車に乗った。
- 8-1(「アメリカ」では第8章にまとめられている断片)
- 二日二晩の旅が続いた。ロスマンはジャコモと隣り合わせに座り、向かい合わせの少年たちとも親しくなった。第一日目、列車は山岳地帯を通った。川幅の広い渓流の上を、列車は走る。水面に近いところを走ると、冷気がロスマンの顔にかかった。
[編集] 第8章について
- 「アメリカ」で「第8章 オクラホマの野外劇場」とされている場面では、前後の内容が繋がらない描写(上記※部分。ロスマンが事務所で働いていた記述は前章までになく、また第7章から続く断片の最後と第8章は明らかに内容が連続していない)が見られ、間に別の挿話が挟まれる可能性を想起させる。またカフカ自身が本作にどのような結末を想定していたか(或いはしていなかったか)は、一切不明である。現在残されている最後の描写は、考えようによっては結末とも取れる場面(ロスマンが新しい希望へ向けて旅立つ)で終わっており、消化されていない伏線はあるものの一応のまとまりを見せている。