大山綱道
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大山 綱道(おおやま つなみち、生年不詳 - 文政3年9月18日(1820年10月24日))は薩摩藩士、城下士。佐々木源氏大山家分家の当主。家格初め御小姓与のち、一代小番(家格小番は他藩の馬廻に相当する)、代々小番。諱は初め、広道のち綱秀、綱道。幼名彦太郎。通称は、休左衛門、宗之丞。号は栖山。
[編集] 経歴
大山綱栄(正徳5年 - 天明8年(1788年)2月23日)の子として誕生。
寛延元年(1748年)6月1日、藩主島津宗信に初お目見え。隠居していた島津継豊の御側小姓になる。
宝暦5年(1755年)の島津重豪藩主就任時に、薩摩藩が宝暦5年9月23日に国目付の京極兵部高主らに提出した薩摩藩分限帳に「側小姓 大山休左衛門」として登場。当時は部屋住まいで無禄。当時は父の大山綱栄(同史料には大山文左衛門で登場)が健在でまだ家督は継いでいなかった。
宝暦10年(1760年)9月20日に島津継豊死去。
御徒目付になる。後に島津重豪の御小納戸頭取になる。
安永2年(1773年)から安永4年(1775年)まで徳之島代官。当時の通称は休左衛門。
家格一代小番に昇格。のち、代々小番になる。
寛政7年(1795年)、百引郷(現在の鹿児島県鹿屋市輝北町)地頭職に就く。この時には、通称を宗之丞と称す。
享和元年(1801年)からは串木野郷(現在の鹿児島県いちき串木野市)地頭職を歴任。なお、当時の地頭は任地に出向くことほとんどなく、城下で生活した。綱道も串木野郷地頭時代に御側御用人を兼任していた。串木野郷地頭は文化12年(1815年)まで就任。
多年の勲功により、恩賞を賜る。
1820年(文政3年)9月18日 死去。墓所は曹洞宗松原山南林寺の墓地(現在の鹿児島県鹿児島市南林寺町、松原町近辺)。
[編集] 家族、親族
- 父:大山綱栄
- 子女:2男1女(大山綱方、於幾代、大山綱毅)