土方雄年
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土方 雄年(ひじかた かつなが)は、伊勢菰野藩の第7代藩主。
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 寛延4年9月4日(1751年10月22日) | |||
死没 | 寛政7年7月20日(1795年9月3日) | |||
別名 | 清太郎(幼名) | |||
諡号 | 羹路 | |||
戒名 | 憲徳院殿利山玄貞大居士 | |||
墓所 | 東京都文京区湯島の麟祥院 | |||
官位 | 従五位下、近江守 | |||
藩 | 伊勢菰野藩主 | |||
氏族 | 土方氏 | |||
父母 | 父:土方雄端、母:木下利潔の娘・美代姫 | |||
兄弟 | 土方雄年、土方義法、木下俊直、中山信勝 | |||
妻 | 正室:石川総候の娘 継室:田村村隆の養女(伊達村定の娘) 継室:田沼意次の養女(新見正則の娘) |
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子 | 1男1女:土方義著(長男)、娘(長沢松平親信室))、 養子:土方雄貞 |
寛延4年(1751年)9月4日、第6代藩主・土方雄端の長男として生まれる。宝暦8年(1758年)、父の死去により後を継いで藩主となる。ところが幼少のために政務が執れず、そのために家老や重臣らの中でも奸臣によって悪政が敷かれたと言われている。
やがて成長すると、藩政の実権を取り戻すために緩んだ綱紀の引き締めを図る。家老を蟄居させ、重臣連中を追放、強制的に隠居させるなどして、藩政の実権を掌握したのである。さらに藩財政再建のために藩政改革を行なうが、大坂や駿府の加番勤務、藩内における凶作などの天災から、藩財政は悪化の一途をたどった。
このため、藩財政再建の打開策として、実子の土方義著を廃嫡して、当時幕府で権勢を誇っていた老中・田沼意次の六男・土方雄貞を養子として迎え、さらに継室に田沼意次の養女を迎えるなどして幕府との関係強化、並びにその後ろ盾による財政援助を得ようとした。しかしこれにより幕府に対する出費がさらに増大することとなり、さらなる財政難を招いてしまった。
安永9年(1780年)10月8日、養子の雄貞に家督を譲って隠居する。しかしなおも藩政の実権を掌握し、天明2年(1782年)に雄貞が早世すると、次の藩主は一族の土方義苗に継がせ、義苗が幼少であったことからなおも藩政を主導した。そして大大名並の派手な生活を送ったという。特に相撲好きで、度重なるほど相撲を興行して、寛政の改革で倹約令が施行されても、それを無視して派手な生活を送り、藩の借金を9800両にまで膨らませたとまで言われている。
寛政7年(1795年)7月20日に死去。享年45。
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