土屋宗遠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
土屋宗遠(つちやむねとお、1128年(大治3年) - 1218年8月27日(建保6年8月5日))は、平安時代~鎌倉時代の武将。中村宗平の三男。兄に土肥実平がいる。
桓武平氏の流れを汲む中村氏の系流にあると言われ、現在の神奈川県平塚市土屋にその居所があったと言われている。桓武平氏系土屋氏の創祖で、兄の土肥次郎実平とともに源頼朝挙兵から頼朝に側近として仕えていた。石橋山の合戦で敗れた頼朝に従い、安房に逃れた七騎落の一人であるとも言われている。以後、有力御家人の一人として活躍した。承元3年(1209年)5月、宿怨から梶原家茂(梶原景時の孫)を和賀江の辺で殺害し、侍所別当の和田義盛のもとに出頭した。宗遠の主張には十分な正当性が認められなかったが、翌月、将軍源実朝は故頼朝の月忌にもあたっていたため、特に彼を赦免している。
彼の子孫は鎌倉幕府から江戸幕府までの間で北条氏、足利氏、武田氏、徳川氏に仕え武家社会の基盤を支え続けた。