喜多見重政
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喜多見 重政(きたみ しげまさ、生年不詳 - 元禄6年7月28日(1693年8月29日)?)は、徳川綱吉の側用人。寵愛を受けて大名に取り立てられたが、すぐに改易にされた。通称は彦五郎(ひこごろう)、のち五郎左衛門(ごろうざえもん)。官位は従五位下・若狭守。
旗本石谷長門守武清(2500石)の次男として誕生する。母は喜多見五郎左衛門重恒(1120石)の娘。生年は不詳だが、長男石谷三大夫清成は慶安2年(1649年)頃の生まれ(没年元禄2年(1689年)から享年41歳で逆算)なので弟の重政が生まれたのはそれ以降であろう。母方の祖父喜多見五郎左衛門重恒の養子に入り、万治3年(1660年)12月25日将軍徳川家綱にはじめて謁見。寛文12年(1672年)5月14日養父重恒の隠居で喜多見家の家督1020石を相続した。26日御書院番に列し、延宝5年(1677年)10月29日進物役となった。
その後、徳川綱吉が将軍に就任すると、はやくから綱吉の激しい寵愛を受けるようになり、延宝8年(1680年)9月26日には将軍の御側衆に列し、天和元年(1681年)4月19日には従五位下若狭守に叙任をされ、12月27日武蔵・上野両国において2000石の所領を加増、さらに天和3年(1683年)に6800石余を加増されて都合1万石に達して譜代大名に列した(武蔵国喜多見藩主)。貞享2年(1685年)には側用人に列した。さらに貞享3年(1686年)には河内と武蔵の両国から1万石を加増されて都合2万石となる。また生類憐みの令の施行を徹底する犬大支配役に任命され、自領喜多見に犬小屋を建設した。
綱吉の格別の寵愛で取り立てられたはずであったのに元禄2年(1689年)2月2日には「将軍の意向にしばしば背き、勤務も疎かにしている」という名目で突然改易に処され、伊勢国桑名藩主松平越中守定重に預けられた。ちなみに同時期の元禄2年(1689年)1月3日には重政の従兄弟である旗本喜多見茂兵衛重治の屋敷で重治と重治の妹の夫浅岡縫殿頭直国が喧嘩になり重治が直国を殺害し、重治もその罪で斬罪に処されるという事件が起こっている。重政の改易もこの事件が綱吉の心象を害したのが原因ではとも言われているが、改易の真の理由は不明。元禄6年(1693年)7月28日に預かり先の桑名で狂死したという。
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