品川主計
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品川主計(しながわ かずえ、1887年 - 1986年)は、内務官僚、会社経営者、読売ジャイアンツ球団代表。1957年のシーズンオフに水原茂監督との間に騒動が起きた。「球界の頑固親父」との異名も持つ。
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[編集] 略歴
福井県福井中学校卒業後、1904年9月 旧制第四高等学校に入学した。同期には正力松太郎や河合良成がいた。第四高等学校卒業は東京帝国大学に入学、同期に正力、河合の他、重光葵、芦田均、石坂泰三など。[1]
東京帝国大学卒業後、内務省に入省して警視庁警視などを務めた。1932年の満州国成立後、監察院長、監察院審計部長などを務める[1]。黒竜江省長の韓雲階による汚職を摘発、一時彼を要職から遠ざけた[2]。
戦後は日本交通会長、東横タクシー社長、読売ジャイアンツ球団代表、明倫学舎評議員会長を務めた[3]。
[編集] エピソード
- 内務省官房主事時代に水野直子爵から近衛文麿の身辺調査をするように頼まれたがこれを断っている。
- 東京国立博物館に殷時代の考古遺物を寄贈している。[4]
- 正力との関係から、正力と親密な五島慶太との関係が生じ、戦時中の一時期東急傍系のタクシー会社の経営をしていた時期がある。
- 1958年のセントルイス・カージナルスとの日米野球で活躍した長嶋茂雄についてAP通信の記者の取材に対して「100万ドルでも(彼をメジャーリーグに)渡さない」と発言している。
- 千葉茂が退団したことで球団経営への情熱を失い球団代表を辞任した。後任は正力松太郎。
- 娘の品川和子は『蜻蛉日記の形成』などの著者[5]。