吉田兼貞
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吉田 兼貞(よしだ かねさだ、延宝3年(1675年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、赤穂浪士四十七士の一人。吉田忠左衛門の息子。通称は沢右衛門(さわえもん)。
延宝3年に吉田忠左衛門兼亮の三男として生まれた。母は熊田新八の娘りん。幼名は千之丞。のち文蔵と称しさらに沢右衛門と変えた。兄二人は夭折・早世しているため、彼が吉田家の嫡男であった。赤穂藩時代には家督前の部屋住みであったが、分限帳のなかには10両3人扶持の近習兼蔵奉行としているものもある。父の陰に隠れて詳しい資料や逸話もないが、浅野家お家断絶以降は基本的に父と行動を共にしていた模様。しかし吉良低討ち入りの際には父とは別に表門隊に所属している。本懐後は長府藩毛利家に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日毛利家家臣進藤為右衛門の介錯で切腹した。享年29。主君浅野内匠頭と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃当掛剣信士。