古高俊太郎
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古高 俊太郎(ふるたか しゅんたろう、文政12年(1829年) - 元治元年7月20日(1864年8月21日)は、攘夷派の志士の一人。
[編集] 人物
近江国栗太郡古高村(現・守山市)の郷士の子。変名・湯浅喜右衛門。諱は正順(まさより)。尊皇攘夷を唱える梅田雲浜の門を叩いている。
文久元年、京都河原町四条上ル東で諸藩御用達・枡屋を継ぎ古道具、馬具を扱いながら、早くから宮部鼎蔵らと交流し、長州間者の大元締として情報活動と武器調達にあたった。
[編集] 新選組
元治元年六月五日、新選組に踏み込まれ捕縛される。武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡や血判書が発見された。今も現存する壬生屯所前川邸の蔵で、局長近藤勇、副長土方歳三から直々に厳しい取調べを受けた。二階から逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、それが突き抜けた足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられる過酷な拷問だったため、ついに古高も自白。
- その内容は、八月十八日の政変後、京を追われた長州人らが六月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮を幽閉し京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうとするものだった。すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており近々市中で同志の集会があることも判明。これを阻止したのが池田屋事件である。
古高は六角獄舎に収容されたが、7月20日に禁門の変の際に生じたどんどん焼けは京都市中を焼き尽くし、獄舎近辺まで延焼。火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、他の囚人とともに斬首となった。享年36。