千早城
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千早城 (大阪府) |
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史蹟 千早城址の碑(2005年9月撮影) |
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城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 楠木正成 |
築城年 | 1332年 |
主な城主 | 楠木氏 |
廃城年 | 1392年 |
遺構 | 曲輪、空堀 |
指定文化財 | 国史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯34度25分2.01秒 東経135度39分4.31秒 |
千早城(ちはやじょう)は、日本の城。所在地は大阪府南河内郡千早赤阪村千早。国指定史跡。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったと言われる連郭式山城である。
目次 |
[編集] 歴史・沿革
[編集] 鎌倉時代・室町時代
楠木正成は本城である上赤坂城を鎌倉幕府軍に奪われていた。元弘2年(正慶元年、1332年)正成は赤坂城の詰めの城として千早城をその背後の山上に築いた。正成はこの年、金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用した。その年の年末には上赤坂城を奪還している。
翌、元弘3年(正慶2年、1333年)、幕府は千早城へ百万と号する大軍を向け、これを攻め立てた。籠城側・楠木軍は僅か千人足らずの兵で100日間に及ぶ籠城戦を戦い抜き幕府軍を撤退せしめた。『太平記』にはこの千早城攻防戦が描かれており、藁人形を用いて大軍を擁しているように見せかけたり、ゲリラ戦を用いて敵軍を翻弄、また崖を登る敵兵に矢を射たり大木・岩石を転がり落とすなどして撃退したと言われる。
千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、遂にこの年、鎌倉幕府は滅亡することとなる。
建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となっていた。しかし、南北朝時代末年となる明徳3年(元中9年、1392年)正成の孫、正勝は北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城し、61年に及ぶ歴史に幕を閉じた。
[編集] 現代
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(55番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
[編集] 遺構
曲輪・空堀の跡が認められる。
[編集] 文化財
[編集] 史跡
現在、城跡は千早神社となっており、社務所が三の丸、神社が二の丸さらにその奥が本丸跡となっている。 昭和9年(1934年)3月13日、国の史跡に指定された。