北野豊吉
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北野 豊吉(きたのとよきち、? - 1984年)は、北野建設株式会社の創業者。(※長野に本店を置く北野建設株式会社ではない。)吉田善哉、和田共弘らとともに1970~80年代を代表するオーナーブリーダーとしても知られ、北海道伊達市のメジロ牧場で競走馬の生産を手がけた。妻は北野ミヤ。
生涯を通じて自家生産馬による天皇賞制覇に執念を燃やし、メジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーンの父子3代にわたる天皇賞制覇の礎を築いた。また、1975年には競走馬の保有体であるメジロ商事が最多賞金獲得馬主の座に輝いた。
[編集] メジロオー事件
1961年の日本ダービーでメジロオーは23番人気ながらハクシヨウの鼻差2着(俗に「髪の毛1本の差」とも言われた)と健闘した。しかし当時は写真判定が導入されていなかったため、一部ではメジロオーが差しきっていたといわれており、馬主や調教師の格の差でメジロオーが2着にされたのだという噂まであった。それが引き金となったのか北野はダービー制覇よりも天皇賞制覇を目指すことになったといわれている。
[編集] メジロアサマにかけた執念
1970年の天皇賞馬であったメジロアサマは現役時代に流感にかかった際に抗生物質を使った後遺症の為、生殖機能が極度に悪くなっていて初年度の受胎数はゼロと即種牡馬廃業になってもおかしくない状況であった。それでも「アサマの仔で天皇賞を勝つ」と誓った北野は周りから馬鹿にされながらも人間(医師)の産婦人科医に診てもらったり、大枚をはたいて輸入した牝馬に種付けを試みるなど活動を行った。その結果、輸入牝馬シェリルとの間に生まれたのが1982年の天皇賞馬メジロティターンであった。また、そのティターンから1991年1992年の天皇賞(春)を連覇したメジロマックイーンが出た。
メジロティターンによる天皇賞制覇の2年後に死去した豊吉の遺言は、「ティターンの仔で天皇賞を勝て」であった。妻のミヤは夫の遺志を実現すべくメジロ牧場を引き継ぎ、メジロマックイーンの生産に成功する。メジロマックイーンが1991年の天皇賞(春)を優勝した瞬間、ミヤは豊吉の遺影を胸に「おじいさんの夢がようやく叶った」と涙したという。