加納久通
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 延宝元年(1673年) | |||
死没 | 寛延元年8月17日(1748年9月9日) | |||
別名 | 孫市、角兵衛 | |||
墓所 | 谷中霊園 | |||
官位 | 従五位下近江守、遠江守 | |||
幕府 | 江戸幕府御側御用取次→若年寄 | |||
主君 | 徳川吉宗 | |||
藩 | 紀伊国紀州藩士→幕臣編入 | |||
氏族 | 加納氏 | |||
父母 | 父:加納政直、養父:加納久政 | |||
妻 | 正室:なし | |||
子 | 久武、久英、養子:加納久堅 |
加納 久通(かのう ひさみち)は、江戸時代中期の大名。初代八田藩主。8代将軍徳川吉宗の側近。通称は孫市、角兵衛。官途は近江守、遠江守。一宮藩加納家初代。
[編集] 生涯
延宝元年(1673年)、紀州和歌山城下で紀州藩士加納政直の子として生まれる。子は加納久武(長男)、加納久英(次男)。親族である加納久政の養子となり、幼少の頃から松平頼方(後の徳川吉宗)に仕える。頼方が紀州藩主に就任すると、同じく側近の有馬氏倫とともに同藩の改革を支える。
享保元年(1716年)、吉宗が将軍に就任すると、有馬らとともに江戸城へ移り、御側御用取次となって将軍と老中の間を取り持ち、享保の改革を補佐する。有馬氏倫がどちらかといえば気の強い性格でしばしばトラブルを起こしたのに対し、久通は穏やかで慎み深い性格であり、良いコンビであったという。実質的に将軍の秘書長として改革を進めたため権勢も大きく、改革の助言者として名高い室鳩巣は「両人の勢盛んにして君辺の柄をとられ候故、老中などいづれも彼に媚び申さるる事目覚ましく候」と書いている。
所領も増進をかさね、享保元年に伊勢国内に1000石を与えられたのを皮切りに、下総にも所領を与えられ、享保11年(1726年)には上野にも8000石を与えられ、合わせて一万石となり、大名に列する(伊勢東阿倉川に陣屋を置く)。以後も吉宗の信頼は篤く、延享2年(1745年)、吉宗が嫡子家重に将軍職を譲って大御所となり江戸城西ノ丸に移ると、これに従って西ノ丸若年寄となり、没するまで吉宗に仕え続けた。
寛延元年(1746年)、没。享年76。谷中墓地に葬られた。養嗣子の加納久堅(加納政信の子)が家督を継いだ。
吉宗を描いた時代劇「暴れん坊将軍」で登場する加納五郎左衛門(有島一郎)は久通である。
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