劉崇
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政権 | 北漢 |
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廟号 | 世祖 |
諡号 | 神武皇帝 |
姓・諱 | 劉崇 |
生没年 | 895年 - 954年 |
在位期間 | 951年 - 954年 |
父 | 劉琠 |
母 | |
陵墓 | |
元号 | 乾祐:951年 - 954年 |
劉崇(りゅう すう、895年 - 954年)は沙陀の人であり、後に劉旻と改名している。五代十国時代に北漢を建国した。
後漢の高祖劉知遠の弟として生まれ、若くして飲酒と賭博を好み、顔に刺青を施して従軍していたと史書に記録されている。劉知遠が後晋による河東節度使に任命された際、都指揮使を担当し、劉知遠が後漢を建国した後は太原(現在の山西省太原市)尹に任じられ、劉承祐が隠帝に即位すると同地で河東節度使に任命された。
後漢の乾祐3年(950年)、枢密使郭威の反乱が発生し、反乱軍が後漢の都城である大梁(現在の河南省開封市)に迫ると劉承祐は逃亡、しかし反乱軍に捕まり殺害され、郭威がそのまま朝政を執ることとなった。劉崇は当初反乱軍に対抗して南下することを計画したが、郭威が劉崇の子である武寧節度使劉贇を皇帝に擁立する計画を知り、軍事行動は実際に実施されなかった。
しかし951年、郭威は自らが帝位に即位し後周を建国、劉贇を殺害するに至ると、劉崇は太原にて自ら帝位に即位し、北漢を建国、名を劉旻と改めた。
北漢は国土が矮小であり民力も貧しかったが、後漢の復興を目標に活動し、遼に対し支援を要請、遼と北漢を父子の関係になぞらえ、遼帝を叔皇帝、自らを姪皇帝と称すなどの迎合政策を実施し、遼もこれに応え劉旻を大漢神武皇帝に冊封している。遼の支援を受けた北漢は、後周に対する軍事行動を数多く起こした。特に乾祐7年(954年)、郭威の死去に乗じて後周を攻撃した際には、後周世宗である柴栄の軍に大敗し、劉旻は農民に扮して逃亡している。
これにより北漢は深刻な打撃を受け、後周を攻撃する余力がなくなった。国勢が凋落する中、劉旻ば病没し、廟号を世祖とし、その子の劉鈞に帝位が継承された。
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