前田利直
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛文12年6月25日(1672年7月19日) | |||
死没 | 宝永7年12月13日(1711年1月31日) | |||
別名 | 大学(通称) | |||
戒名 | 円通院悟性義聞大居士 | |||
官位 | 従四位下、飛騨守 | |||
藩 | 加賀大聖寺藩主 | |||
氏族 | 加賀前田氏 | |||
父母 | 父:前田利明 母:本多忠義の娘・慈眼院(勢幾) |
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兄弟 | 万吉、杢之助、前田利直、前田利昌 | |||
妻 | 正室:酒井忠義の娘・霊台院(種) | |||
子 | 富貴(前田利興正室)、須和(松平清方正室) 養子:前田利章 |
前田 利直(まえだ としなお)は、江戸時代の大名。加賀大聖寺藩の第3代藩主。
寛文12年(1672年)6月25日、第2代藩主・利明の長男として江戸に生まれる。貞享元年(1684年)に将軍・徳川綱吉と拝謁して以降、綱吉の寵愛を受けて藩主になる以前の元禄4年(1691年)には、外様大名の立場であるにも関わらず、奥詰に任じられ、待遇も譜代大名と同格に扱われた。翌年に父親が死去したために後を継ぐ。このとき、弟の利昌に1万石を分与して支藩である大聖寺新田藩を立藩させた。
しかし、綱吉の側近であった立場から江戸に在府し、国に戻って藩政を執るということがほとんどなかったため、藩政は家臣団によって牛耳られ、実権をめぐっての対立が絶えず、また江戸藩邸の焼失などで藩財政が圧迫した。しかも晩年の宝永6年(1709年)、綱吉が死去したために奥詰を解任されたうえ、弟の利昌が大和柳本藩主・織田秀親を暗殺して改易となるなど、不幸が続く中で、宝永7年(1710年)12月13日に死去した。墓所は石川県加賀市の実性院。
後を養嗣子の前田利章が継いだ。
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