分部光貞
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分部 光貞(わけべ みつさだ、文化13年(1816年) - 明治3年4月12日(1870年5月12日))は、近江大溝藩の第11代藩主。分部家12代。
上野国安中藩主・板倉勝尚の次男。子に分部光謙(次男)、娘(溝口直正正室)。官位は従五位上、若狭守。
幼名は虎之助。先代藩主・分部光寧の養嗣子となり、天保2年(1831年)3月10日、光寧の隠居により後を継いだ。文久3年(1863年)の八月十八日の政変では京都の守備を務めた。その功績を孝明天皇に賞賛されて、金子を与えられている。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となるが、翌年4月12日に55歳で死去し、後を次男の光謙が継いだ。法号:大亮院殿橒嶺道峻大居士。墓所:滋賀県高島市大溝の円光寺。
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