八卦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八卦 | |||||||||
|
|||||||||
|
|||||||||
六十四卦 | |||||||||
上経(1-30) 下経(31-64) |
八卦(はっけ、はっか)は、古代中国から伝わる易における8つの基本図像。すなわち、(乾)・(兌)・(離)・(震)・(巽)・(坎)・(艮)・(坤)の八つ。卦は爻と呼ばれる記号を3つ組み合わた三爻によりできたものである。爻には─陽(剛)と--陰(柔)の2種類があり、組み合わせにより八卦ができる。なお八爻の順位は下から上で、下爻・中爻・上爻の順である。また八卦を2つずつ組み合わせることにより六十四卦が作られる。
目次 |
[編集] 卦象
八卦は伏羲が天地自然に象って作ったという伝説があり、卦の形はさまざまな事物事象を表しているとされる。
下表のように方位などに当てて運勢や方位の吉凶を占うことが多い。
八卦 | 卦名 | 和訓 | 自然 | 性情 | 家族 | 身体 | 方位 | Unicode |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
乾(ケン) | いぬい | 天 | 健 | 父 | 首 | 西北 | U+2630 | |
坤(コン) | ひつじさる | 地 | 順 | 母 | 腹 | 西南 | U+2637 | |
震(シン) | - | 雷 | 動 | 長男 | 足 | 東 | U+2633 | |
巽(ソン) | たつみ | 風 | 入 | 長女 | 股 | 東南 | U+2634 | |
坎・戡(カン) | - | 水 | 陥 | 中男 | 耳 | 北 | U+2635 | |
離(リ) | - | 火 | 麗 | 中女 | 目 | 南 | U+2632 | |
艮(ゴン) | うしとら | 山 | 止 | 少男 | 手 | 東北 | U+2636 | |
兌(ダ) | - | 沢 | 悦 | 少女 | 口 | 西 | U+2631 |
[編集] 次序
なお朱子学系統の易学における八卦の順序には「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を「伏羲八卦次序」、後者を「文王八卦次序」という。
伏羲八卦次序は繋辞上伝にある「太極-両儀-四象-八卦」の宇宙の万物生成過程に基づいており、陰陽未分の太極から陰陽両儀が生まれ、陰と陽それぞれから新しい陰陽が生じることによって四象となり、四象それぞれからまた新しい陰陽が生じることによって八卦となることを、 の順で表している。下記の図はその様子を描いたものであり、陽爻は白で、陰爻は黒で表されている。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |
八卦 | 乾 | 兌 | 離 | 震 | 巽 | 坎 | 艮 | 坤 |
四象 | 太陽 | 少陰 | 少陽 | 太陰 | ||||
両儀 | 陽 | 陰 | ||||||
太極 |
一方、文王八卦次序は上記のような説卦伝で説かれた卦の象徴の意味にもとづいており、父母( )が陰陽二気を交合して長男長女( )・中男中女( )・少男少女( )を生むという順を表す。ここで子は下爻が長子、中爻が次子、上爻が末子を表し、陽爻が男、陰爻が女を象徴している。
[編集] 八卦の歴史
占筮では筮竹を算数的に操作していった結果、「卦」と呼ばれる6本の棒(爻)からできた記号を選ぶ。易経では全部で六十四卦が設けられているが、これは三爻ずつの記号が上下に重ねられてできていると考えられた。この三爻で構成される記号が全部で8種類あり、これを「八卦」と称している。いわばおみくじを選ぶための道具であるが、易伝ではこの八卦がさまざまなものを象っていると考え、特に説卦伝において八卦がそれぞれ何の象形であるかを一々列挙している。漢代の易学(漢易)ではさらに五行思想と結合して解釈されるようになり、五行を属性としてもつ五時・五方・五常…といったものが八卦に配当され、さらには六十干支を卦と結びつけて占う納甲が行われたりもした。また1年12ヶ月を卦と結びつけた十二消息卦など天文・楽律・暦学におよぶ卦気説と呼ばれる理論体系も構築された。
伝説によれば、『易経』は、まず伏羲が八卦をつくり、周の文王がこれに卦辞を作ったという。この伝承にもとづき南宋の朱熹は、繋辞上伝にある「太極-両儀-四象-八卦」の生成論による「乾兌離震巽坎艮坤」の順序を伏羲が天地自然に象って卦を作ったことに見立てて伏羲先天八卦とし、説卦伝にある「父母-長男長女-中男中女-少男少女」の生成論にもとづく「乾坤震巽坎離艮兌」の順序を文王が人々に倫理道徳を示すために卦辞を作ったことに見立てて文王後天八卦とした。これにもとづいて配置された図を先天図・後天図という。後天図はもともと説卦伝で配当されていた方位であるため従来からのものであるが、先天図系の諸図は実際は11世紀の北宋の邵雍の著作『皇極経世書』が初出であり、邵雍の創作と推測されている。
|
|
朱熹は八卦の手本となったという伝説上の河図洛書を陰陽を表す黒白点による十数図・九数図と規定するとともに、周敦頤の太極図、邵雍の先天諸図を取り入れ、図書先天の学にもとづく体系的な世界観を構築した。
清代になると実証主義を重んじる考証学が興起し、神秘的な図や数にもとづいた宋易は否定され、漢代易学の復元が試みられた。黄宗羲は『易学象数論』において宋易の先天諸図が繋辞上伝の「太極-両儀-四象-八卦」を1爻ずつを2進法的に積み重ねたものと解釈して「太極(1)→両儀(2)→四象(4)→八卦(8)→16→32→六十四卦(64)」とし、陰陽2爻を2画組み合わせたものを四象とするなど経文に基づかない無意味なものを描いていることを批判した。黄宗羲は「四象」は三画八卦を、「八卦」は六十四卦を表していると解釈し、これにより六十四卦は三画の八卦の組み合わせであって爻の積み重ねではないとし、宋易の図説が根拠のない創作であることを主張した。これをうけて胡渭は『易図明辨』において宋易が重んじた図像は道教に由来することを著し、図書先天の学を厳しく攻撃した。
[編集] 風水
易を先天易と後天易に分ける考え方以外に、連山易・帰蔵易(歸藏易)・周易の三易に分ける考え方もある。風水において連山易は神農もしくは夏王朝の易、帰蔵易は黄帝もしくは殷の易とされることが多く、また連山=天・帰蔵=地・周易=人の三才に当てられることもある。その方位図は風水の道具、羅盤などに使用されている。なお帰蔵については竹簡文書『歸藏』が王家台秦墓から発見されている。
三易の違いは八卦および六十四卦の配列方法であり、連山は艮(山)を、帰蔵は坤(地)を首卦とする(ただし、連山易は乾坤を除いた六芒星(ヘキサグラム)に配列したものとされたり、連山易=先天易=伏羲の易として先天図とされることもある)。なお先天易と帰蔵易の八卦図は河図洛書と関わる数字を配した場合、魔方陣となる(なお図は風水参照)
なお外部リンクの風水羅盤の八卦図であるがこれは南を上にしてある。これは昔の中国(その他の国)においては、地図を含め南を上にすることによる。従ってこの伝統に基づき表記された八卦図はこのページの図とは反対になっている。