倉吉藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
目次 |
[編集] 概要
安房一国を領していた里見忠義は慶長19年(1614年)、大久保長安事件の余波を受けて、義祖父の大久保忠隣が改易されると、忠義も連座により安房一国を没収される。ただし、関ヶ原の戦いの戦功による加増地である常陸鹿島3万石については代替として、伯耆国倉吉に新たに3万石を与えられて倉吉藩を立藩した。しかし事実上は4000石程度の所領に過ぎず、また忠義は新規に所領を与えられたとか、移封ではなく、どちらかというと連座処分による流罪のようなものであったと言われている。元和8年(1622年)、忠義は死去。嗣子がなかったこともあって、里見氏は断絶した。これにより、倉吉藩は消滅し、その所領は池田氏の属領として組み込まれたのである。
[編集] 歴代藩主
[編集] 里見家
外様。3万石。
- 里見忠義(ただよし)