信玄堤
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信玄堤(しんげんつつみ)は、山梨県甲斐市(旧竜王町)にある堤防である。霞堤(かすみてい)。戦国時代に甲斐の守護、戦国大名である武田信玄(晴信)により築かれたとされる。霞堤をはじめ、「信玄堤」と呼ばれる堤防は武田氏以降のものを含め県内各地にも存在する(『甲斐国志』に拠る)。竜王堤。
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[編集] 概要
甲斐国は内陸部の山間地域であり、平野部である甲府盆地を有するが笛吹川と釜無川両河川の氾濫原であったためしばしば大雨による水害が発生し、河川が乱流する地域であったため開墾は困難であった。武田信虎時代に国内統一を果たした武田氏にとって、大名領国を形成するためには国力増強が必要であり、治水事業による新田開発が行われた。川除工事の開始時期は不明であるが、晴信が国主となった翌天文11年には大規模な洪水が起こっており、これを契機に着手したとも考えられている。
『国志』に拠れば、はじめ植林などを行われていたが、御勅使川と釜無川との合流地点である竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川流路を南に制御が試みられた。工事は20年以上に渡り、永禄3年(1560年)8月2日の武田信玄印判状(『保坂達家文書』)に拠れば、堤防管理のため棟別役を免除される代わり川除への集団移住(竜王河原宿)が促されており、一応の完成をみたと考えられている。堤防築造により洪水被害は緩和され、竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した生産力が確保されたと考えられている。
文禄年間の甲府城代家臣浅野吉明の書状(『今沢文書』に拠れば竜王堤の普請は続けられており、江戸時代にかけて中巨摩郡昭和町や中央市(旧田富町)方面へ部分的に延長された。1994年(平成6年)に行われた昭和町河西の発掘調査に拠れば、堤防は河原の砂礫層に杭列が施されたもので、内側へ突出した「石積出し」の痕跡も見られる。新旧の差が見られ、修復が繰り返されていたと考えられている。
[編集] 近年の研究
信玄堤は『国志』以来、信玄期に主導された代表的治績と位置づけられており、武田氏研究においては柴辻俊六らの研究者もこの見解を支持している。一方で、信玄期の関与を示す直接的な史料は無いことから、笹本正治など信玄の関与を疑問視する意見も見られる。近年では、南アルプス市域の開発に際して御勅使川旧河道に関する考古学的調査が行われ、シンポジウム『信玄堤の再評価』において報告された。
同シンポジウムでは御勅使川の現流路(掘切流路)は短期間に形成されたものであるが自然開削であった可能性が示され、堤防工事が自然作用による流路変更を固定化したものであるとする説も提唱されている(今福利恵「御勅使川流路の変遷と地域の諸相」『信玄堤の再評価』)。これを踏まえて文献史学の立場からは、信玄の治績であるとする立場は維持しつつ、堤防工事は大名権力による川除衆らの技術者集団や労働力が動員され、河原宿設置や用水路開削など一定の計画性により行われたものであると評価する意見が見られる(平山優「中近世移行期甲斐における治水の発展」『信玄堤の再評価』)。
[編集] 竜王河原宿と御幸祭
古来から水難場では堤防の安全を記念する川除祭礼が行われているが、竜王河原宿には甲斐国一宮浅間神社、二宮美和神社、三宮神社が勧請されて三社神社が設置されており、川除祭礼が行われている。祭礼は弘治3年(1557年)が初見で、4月第二亥日の夏御幸と11月第二亥日の冬御幸が行われている。御幸祭では各社から川除祭礼を行いつつ御輿が竜王へ向けて行進する祭祀が行われ、近世には甲府の一蓮寺において甲府勤番に御札を献上して青銅の奉納を受け、上石田の三社神社を経ている。冬御幸は上石田三社神社までであることから、荒川の川除神事とも関係していると考えられている。
[編集] 関連項目
- 農業土木
[編集] 参考文献
- 『山梨県史通史編3近世1』