体子内親王
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体子内親王(たいし(なりこ)ないしんのう、寛喜3年(1231年) - 正安3年12月27日(1302年1月26日))は、鎌倉時代の皇族・女院(神仙門院)。後堀河天皇の第2皇女で、母は中納言持明院(藤原)家行女。四条天皇らの異母姉妹で、室町院暉子内親王の同母妹。名は體子とも表記する。
建長8年(1256年)2月6日内親王宣下を受け、翌日に准三宮・女院となり神仙門院と号した。その後11歳年上の後嵯峨天皇(体子内親王の再従兄弟)の後宮に入ったが、彼女が正式の后妃になった形跡がないこと、二人の間に生まれた皇女の名前が知られていないことなどから、このことは当時の宮廷でも醜聞扱いだったと推察される。体子内親王は後嵯峨天皇の皇女を出産したが、後嵯峨上皇崩御後の弘長元年(1261年)12月28日に剃髪して妙智覚と称した。正安3年(1301年)12月27日、71歳で崩御。
体子内親王の産んだ皇女は、父の後嵯峨院に養育された。しかし『増鏡』巻十によると乳母子の四条隆康(1249-1291)と密通し、弘安4年(1281年)夏頃に産褥死したという。
[編集] 参考文献
- 芳賀登ほか監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年。