佐久川寛賀
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佐久川 寛賀(さくかわ かんが 1782年 - 1838年もしくは1862年)は沖縄の琉球王国時代の唐手(現・空手)家。首里手の祖と言われ、「彼(佐久川)の後には彼はなく、後世の世に称せられる人で、力量その他の点において、彼の右に出るほどの人はなかった」(本部朝基)と讃えられる、空手史上、最大の大家の一人である。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
佐久川寛賀は旧姓を照屋といい、1782年、首里赤田村(現・那覇市首里赤田町)に生まれた(鳥堀村との説もあり)。称号は筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)、あだ名は、唐手佐久川(トゥーディーさくかわ)と呼ばれた。易氏・浦添親方寛安から数えて九世にあたるとされる首里士族である。
[編集] 武歴
佐久川が、最初誰に師事したかは明らかではない。18世紀に来琉したとされる中国拳法家・公相君に師事したとの口碑もあるが、公相君が来琉したとされる1756年は、佐久川が生まれる遙か以前で、この説は信憑性に乏しい。他に、久米村の唐名・毛国棟・嵩原通事安執に師事したと説く研究者もいるが、明確な証拠があるわけではない。実際のところは不明である。
1806年、佐久川は留学のため、中国へ渡ったとされる。この時の航海途中、佐久川が乗った船は海賊に襲われたが、佐久川は棒を使って海賊を退治したとの武勇伝が伝えられている。北京では、佐久川は国子監(最高学府)内にあった琉球学館[1]で勉学に励むかたわら、中国武術を修行したとされる。佐久川の師匠は、武術教官の「イワァー(偉伯)」だったともいわれるが、真偽ははっきりしない。佐久川はその後も数度、進貢船の乗員として北京へ渡り、最後は1836年に渡航し、北京滞在中の1837年、病のため北京で客死した。享年56歳であった(他に、80歳まで長寿であったという説もある)。遺骨は北京の外蛮墓地に葬られた。これは戦前、子孫が現地に行って確認してきたという。
帰国した佐久川は、幼少の頃より学んだ沖縄固有の武術「手(ティー)」に、北京で学んだ中国武術を融合させて独自の武術を創造したと考えられている。これが今日の空手の原型にあたる唐手であったのだろう。なぜなら、沖縄の武術史上、唐手の二文字は、「唐手佐久川」とあだ名された佐久川寛賀において初めて現れるからである。佐久川は、事実上、空手の父といえる。なお、沖縄には「佐久川の棍」という棒術が伝えられているが、これは佐久川寛賀の作という説と別人の説という二つの説がある。
[編集] 晩年
1835年、八重山在番となり、同時に佐久川の名島(姓)を賜り、佐久川寛賀と称するようになったといわれる。佐久川の弟子には、松村宗棍がいる。
[編集] 脚注
- ^ 藤原稜三は佐久川の滞在した施設を「会同館」としているが、会同館は外交使節のための宿泊施設であり、佐久川が留学生として北京に滞在したのなら、琉球学館に寄宿したはずである。『格闘技の歴史』651頁を参照。
[編集] 参考文献
- 藤原稜三『格闘技の歴史』 ISBN 4583028148
- 長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社 ISBN 4404013493