仙石政房
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛文13年4月22日(1673年6月7日) | |||
死没 | 享保20年4月24日(1735年6月14日) | |||
別名 | 監物・外記・靭負(通称) | |||
墓所 | 東京都文京区白山の大乗寺 | |||
戒名 | 大雲院殿慈潤義徹大居士 | |||
官位 | 従五位下、信濃守 | |||
幕府 | 江戸幕府奏者番・寺社奉行 | |||
藩 | 但馬出石藩主 | |||
氏族 | 仙石氏 | |||
父母 | 父:仙石政治、母:仙石政勝の娘・貞雲院 養父:仙石政明 |
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兄弟 | 仙石政房、仙石政友 | |||
妻 | 正室:西尾教寛の娘・津裳子(清妙院) | |||
子 | 仙石政芳(六男)、増子(仙石政辰正室) 町子(井上正経正室)、弁子(山崎信盛正室) 通(土井利寛正室)、養子:仙石政辰 |
仙石 政房(せんごく まさふさ)は、但馬出石藩の第2代藩主。出石藩仙石家5代。
寛文13年(1673年)4月22日、仙石家の家祖である仙石秀久の長男・仙石久忠の子・仙石久治の子である仙石政治の子として生まれる。生母は仙石家2代・仙石忠政の三男で、初代藩主・仙石政明の補佐役を務めた重臣・仙石政勝の娘。
秀久の長男・久忠は本来なら家督継承者だったが、若い頃に失明したために廃嫡されて京都に隠棲した。しかし久忠の弟・仙石忠政は兄の子である久治を家老として召し出し、兄の家系は本家に仕える家老として続いていた。
政房は延宝6年(1678年)に父が死去したため、家督を継いで家老として政明に仕えた。宝永3年(1706年)の信濃上田藩から但馬出石藩への移封では、出石城受け取りなど移封の全責任者を務めている。
仙石政明の実子は全て早世していた。このため分家の政房と久貞(政房の従兄弟)が後継者をめぐって争った末の宝永5年(1708年)7月21日に政房が政明の養子となったのである。享保2年(1717年)に政明が死去すると、家督を継いで第2代藩主となる。政房は自らの権力を強化するため、対立していた久貞を享保14年(1729年)に知行削減の上で隠居させ、弟の政友を家老に任命して久忠系統者による本家独占化を図っている。
しかし藩の財政難などから上米を行なっている。享保7年(1722年)11月28日に奏者番に任じられ、享保19年(1734年)6月5日に寺社奉行に任じられるなど、幕閣として幕政にも参与した。後には老中にまで栄進するという話もあったが、享保20年(1735年)3月に病に倒れ、4月24日に死去した。享年63。
跡を婿養子の仙石政辰が継いだ。
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