仁宗 (宋)
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政権 | 北宋 |
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廟号 | 仁宗 |
諡号 | 体天法道極功全徳神文聖武睿哲明孝皇帝 |
姓・諱 | 趙受益 趙禎(立太子後) |
生没年 | 1010年 - 1063年 |
在位期間 | 1022年 - 1063年 |
父 | 真宗 |
母 | 李宸妃 |
陵墓 | 永昭陵 |
元号 | 天聖:1023年 — 1032年 明道:1032年 — 1033年 景祐:1034年 — 1038年 宝元:1038年 — 1040年 康定:1040年 - 1041年 慶暦:1041年 — 1048年 皇祐:1049年 — 1054年 至和:1054年 — 1056年 嘉祐:1056年 — 1063年 |
仁宗(じんそう、1010年 - 1063年、在位1022年 - 1063年)は、北宋の第4代皇帝で、第3代皇帝・真宗の6男。諱は初め受益であったが皇太子になった後に禎と改めた。
1022年、真宗の崩御に伴い即位した。英邁な資質を持った皇帝とされ富弼や文彦博をはじめとする人材を多く登用した。
当時は文治主義に偏重し軍事力が弱体化しており、西夏などの圧迫を受けるなど対外的には危機的な状況が続いていた。仁宗は宋の常備軍の強化などの軍事力の増強を行なう一方で、西夏や遼に対しては銀をはじめとする貢物を贈ることで友好関係を維持する外交を展開した。しかしこの財源を確保すべく重い賦税を民衆に強いる事となり農村の荒廃と民衆叛乱を引き起こしている。
不安が高まる社会を改革すべく、改革を求める党派も出現し、後の新法・旧法の対立に代表される権力闘争の原型を形成した時代でも有る。1063年、嗣子が無いまま病死している。
なお仁宗の治世の時代は、慶暦の治と称されている。
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