京極高或
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
京極 高或(きょうごく たかもち、1692年2月25日(元禄5年1月9日) - 1724年8月10日(享保9年6月22日))は、外様大名である京極氏の江戸時代中期の当主。丸亀藩3代藩主。
[編集] 生涯
1692年(元禄5年)に讃岐丸亀藩主であった京極氏当主の高豊と正室の間に生まれ、幼名は縫殿と称した。
1694年(元禄7年)、わずか3歳で父の高豊が亡くなる。高或の夭折による家の断絶を恐れた高豊の遺言により、高或は宗家を継ぎ、庶兄の高通は藩内より一万石を分け、多度津藩主となる。
1706年(宝永3年)に従五位下若狭守に任ぜられ、翌年には元服し前髪を京極氏の氏神である沙沙貴神社へと納める。
1724年(享保9年)に33歳で無くなり、天祥院殿仁巌道宅代居士との法名を贈られる。
伊予宇和島藩主伊達宗利の娘を正室とし、間にもうけた高矩を嫡子とした。側室の馬勢子と間の常子は大久保忠胤へと嫁ぎ、登満子との間の忠需は遠江横須賀の藩主西尾忠尚の養嗣子となり、民子との間の高永は但馬豊岡の藩主京極高寛の養嗣子となった。
[編集] 参考文献
- 西讃府史
|
|
|
|
|
|