京極高品
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京極 高品(きょうごく たかかず)は、但馬豊岡藩の第6代藩主。豊岡藩京極家8代。
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 寛保元年7月18日(1741年8月28日) | |||
死没 | 寛政4年7月6日(1792年8月23日) | |||
別名 | 六丸(幼名)、甲斐入道(剃髪後) | |||
諡号 | 大虎 | |||
戒名 | 賢明院殿馨誉徳翁道流大居士 | |||
墓所 | 兵庫県豊岡市の瑞泰寺 | |||
官位 | 従五位下、甲斐守 | |||
藩 | 但馬豊岡藩主 | |||
氏族 | 京極氏 | |||
父母 | 父:京極高永、母:細川興生の娘 | |||
兄弟 | 京極高品、坂部成寿、京極永武、 京極高大 |
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妻 | 正室:加納久堅の娘 | |||
子 | 養子:京極高大、京極高有 |
寛保元年(1741年)7月18日、第5代藩主・京極高永の長男として江戸麹町邸で生まれる。宝暦10年(1760年)に父が死去したため、家督を継いで藩主となり、宝暦11年(1761年)に従五位下、甲斐守に叙任する。同年から文武の奨励、倹約の徹底、礼儀の徹底などを中心とした藩政改革を行ない、15ヵ条の触れを出し、藩士の贈収賄を取り締まって綱紀粛正を図り、緊縮財政政策を採用した。しかし、藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。
寛政元年(1789年)に正室と離別し、嗣子が無かったため、弟の高大を養子として迎えていたが、病弱なために寛政2年(1790年)に廃嫡し、改めて峰山藩京極家から京極高有を養子として迎え、寛政3年(1791年)5月10日、「放心に付」であるとして隠居し、家督を高有に譲った。その後、剃髪して甲斐入道と号した。
寛政4年(1792年)7月6日、豊岡で死去。享年52。
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