井石礼司
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井石 礼司 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府東大阪市 |
生年月日 | 1942年9月5日(65歳) |
身長 体重 |
182cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1965年 |
初出場 | 1965年 |
最終出場 | 1973年 |
経歴 | |
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井石 礼司(いいし れいじ、1942年9月5日 - )は、大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手。左投左打で、ポジションは外野手。
目次 |
[編集] 来歴・人物
天王寺高校を経て慶應義塾大学野球部へ。六大学野球リーグ戦では4番を張っていた。1965年に東京オリオンズへ入団。主に代打として活躍する。1966年の近鉄戦でプロ野球通算20000号本塁打のメモリアルアーチを放った(この記念弾にはエピソードあり。下記参照)。1970年のリーグ優勝に貢献し、この年の日本シリーズで2本塁打を打ち、このシリーズの敢闘賞に輝いた。1972年に広島東洋カープにトレードで移籍するが結果は残せずに1973年に引退した。
[編集] タイトル・表彰
- オールスターゲーム出場(1966年)
[編集] 通算成績
581試合 1200打数 87得点 258安打 27本塁打 136打点 5盗塁 打率.215
[編集] エピソード
球界引退から12年後の1985年、井石は1966年に達成した日本プロ野球通算20,000号本塁打の連盟表彰を受けた。これは野球体育博物館における再調査の際、これまでの通算本塁打が1本余分に算出されていたことが発覚したために(そのため井石の記念弾は20,001号ということになっていた)、表彰をし直す運びとなり、同年プロ野球通算50,000号本塁打を達成した近鉄・仲根政裕共々表彰を受けている。井石は当時「(自分の名前を再び球界に呼びおこした)仲根君に足を向けて寝られない」と苦笑していたが、井石よりも一回り下であったその仲根の早すぎる訃報(1995年没、享年40)を聞いた際、人目もはばからず号泣した、と伝えられている。