五島盛佳
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 貞享4年9月2日(1687年10月7日) | |||
死没 | 享保19年8月6日(1734年9月3日) | |||
別名 | 国千代、万吉(幼名)、主税(通称) 盛高(別名) |
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戒名 | 覚岸院殿天量和卒大居士 | |||
墓所 | 長崎県福江市福江の大円寺 | |||
官位 | 従五位下、大和守、近江守 | |||
藩 | 肥前福江藩主 | |||
氏族 | 五島氏 | |||
父母 | 父:五島盛暢、母:宮崎氏 | |||
兄弟 | 五島盛佳、五島盛興、五島盛宜 | |||
妻 | 正室:堀田正虎の養女(堀田正休の娘) 側室:林氏、利代(中村氏) 竹女(川島氏)、直女、伊東氏、連女 |
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子 | 五島盛道、五島久就、五島秀政 五島景寿、嘉亮、景春、五島秀利 |
五島 盛佳(ごとう もりよし)は、肥前福江藩の第6代藩主。五島氏の第26代当主である。
貞享4年(1687年)9月2日、第5代藩主・五島盛暢の長男として生まれる。元禄4年(1691年)に父が死去したため、家督を継いで第6代藩主となる。しかし5歳の幼少のため、伯父の五島盛延が後見人となった。
人事の一新、家臣救済のために借金返済の凍結、元禄11年(1698年)には新田開発を行ない、新田からは3年間の年貢免除を行なうなど改革を進めたが、元禄14年(1701年)には凶作となり、元禄15年(1702年)には捕鯨業も不振であり、次第に財政難が表面化してゆく。この年の9月18日に元服した。このため、宝永7年(1710年)には材木の輸出を行ない、商人に対して財政援助の融資を求めるなどしたが、ほとんど効果は無かった。享保6年(1721年)には領内の労働人口を把握して確保するため、「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載した。
享保13年(1728年)8月11日、家督を子の五島盛道に譲って隠居する。享保19年(1734年)8月6日に死去。享年48。
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