丸山 (長崎市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丸山(まるやま)は、寛永末 - 1956年(昭和31年)の間に栄えた長崎の花街(遊女・芸者などの集まる街)。現在の長崎県長崎市丸山町、寄合町のことを指す。
目次 |
[編集] 始まりと終わり
寛永末頃の集娼制度設立により、市中の遊女屋が全て丸山の地に集められたのが始まりである。のち、その区域も整備され町名も太夫町から丸山町・寄合町に変更された。1956年の売春防止法公布により遊郭としての丸山は終焉した。
そのはじめは、文禄2年、筑前博多柳町のじゃっかんの遊女を古町、桶町、今博多町に移住させたことである。 のち、その数はしだいにふえ、博多町、大井手町、紙屋町、古町、八幡町、伊勢町そのほかに散在していたのを寛永19年、丸山町、寄合町にひきまとめた。延宝版「長崎土産」には「丸山町遊女屋五十九軒遊女三百三十五人内太夫六十九人、寄合町遊女屋四十四軒遊女四百三十一人内太夫五十八人」とあり、 元禄ころの状況をつたえるケンペルの紀行には「長崎の丸山は今日の嶋原以外では、他に見られぬ艶麗を表現している」とあり、花月楼の鶴の枕は、唐の玄宗皇帝の楊貴妃の遺物であるといってつたわり、遊女の服装がはなやかだったことは、小唄「京の女郎に長崎衣裳、江戸の意気地にはればれと、大坂の揚屋で遊びたい」にのこるほどであったから、井原西鶴の「日本永代蔵」には「長崎に丸山と云ふ所なくば、上方の金銭無事に帰宅すべし」とさえ評されたが、しかしそのおもかげもない。
[編集] 花街に由来する代表的建造物
- 玉泉稲荷
- 梅園天神
- 花月(引田屋)
- 中の茶屋
[編集] 参考文献
- 丸山遊女と唐紅毛人 (1968年) 永島 正一、古賀 十二郎、 長崎学会 (1968)
- 長崎街道―鎖国下の異文化情報路 丸山 雍成 (2000/5)
- 長崎出島の遊女―近代への窓を開いた女たち 白石 広子 (2005/4)
[編集] 関連作品
- デアマンテ 碧也ぴんく(WEBコミック「スピカ」にて連載中の漫画)