中川猪三郎
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中川猪三郎(なかがわ いのざぶろう:生年没年不詳)は、ヤクザ。三代目山口組中川組組長。山口組山老会の一人。
[編集] 来歴
昭和32年(1957年)、田中禄春(本名は韓禄春)を三代目山口組・田岡一雄組長に紹介した。田中は、持参金を持って田岡の盃を受け、若衆となった。
昭和34年(1959年)5月、柳川組・柳川次郎組長(通称はマテンの黒シャツ。本名は梁元錫)がテキヤ北三沢組・藤本与治組長とキタの露天で提携した。すぐに柳川組と北三沢組は、大野会・大野鶴吉会長の舎弟双葉会・丹羽峯夫組長と小競り合いとなった。中川猪三郎がこの仲裁に、当たった。結局は、この仲裁は失敗し、別の者の仲裁で解決した。山口組若頭・地道行雄は、柳川次郎に、注目した。田岡一雄は、地道から柳川を推挙され、快諾した。
同年6月、柳川次郎は、中川猪三郎の仲介で、地道行雄と盃を交わして、地道行雄の舎弟となった。柳川組の福田留吉・園幸義・黒沢明(後の三代目山口組若中)らは、地道組(組長は地道行雄)の若衆に直った。
詳細は明友会事件を参照
昭和56年(1981年)、山口組の湊芳治らとともに、山口組山老会を名乗った。
昭和59年(1984年)、四代目山口組発足後に、引退した。
[編集] 参考文献
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店(角川文庫)、1990年、ISBN 4-04-146425-0