中山慶子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中山 慶子(なかやま よしこ、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 明治40年(1907年)10月5日)は、明治天皇の生母。号は中山一位局など。権大納言・中山忠能(1809-1888)の次女で、母は平戸藩主・松浦清(靜山)の十一女・愛子。祖母は松平定信の娘である。侯爵を授けられた忠愛は長兄。天誅組の主将・忠光は同母弟。従一位勲一等。
天保6年(1835年)11月28日、京都石楽師に生まれ、八瀬(現京都市左京区八瀬)に里子に出されて育つ。17歳で典侍御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年(1852年)9月22日、実家中山邸において皇子祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。
祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年(1860年)7月10日、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。
慶応3年(1867年)正月9日、睦仁親王が践祚。同年4月、慶子は病のため辞していた典侍に再任される。慶応4年(1868年)8月4日、従三位及び食禄五百石と屋敷地を賜わり、翌々年9月7日、さらに従二位に叙せられた。明治3年(1870年)9月、遷都に伴い東京に移住。
明治12年(1879年)に生まれた嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育掛となり、明治22年(1889年)まで親王の養育を任せられた。同年正二位。
明治維新による女院号廃止のため院号宣下が無かったが、国母として相応に厚遇された。明治33年(1900年)正月15日、大患により従一位に昇叙。同17日、人臣で初めて勲一等宝冠章を授けられた。明治40年(1907年)10月5日、東京青山南町の邸にて死去。享年73。豊島岡墓地に埋葬される。