与板藩
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与板藩(よいたはん)は越後国三島郡、中部に存した藩。藩庁は三島郡与板(現新潟県長岡市)の与板陣屋(のち与板城)。
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[編集] 概要
長岡藩初代藩主牧野忠成の次男康成が1634年(寛永11年)に三島郡与板に1万石を分与され、長岡藩の支藩として成立した。藩主の政庁は上杉氏の家老直江兼続の居城として有名な与板城址の麓に陣屋を置いて、与板近辺を支配した。正しくは、当時は與板と書いた。
2代目の与板侯、牧野康道の上級家臣として、牧野・野口・加藤・木俣・諏訪・真木・稲垣・平井・甲谷・小川・太田の惣士があった。1667年(寛文7年)、突如として、家老の野口氏が改易となり、一族は召し放ち処分(解雇)となり、牧野氏の家中から根刮ぎ追放された。野口氏は、家老のほかに2人が要職にあった。改易の理由は、江戸城からの下城するにあたって、幼い藩主であった康道の後詰めの不備を責められたものである。藩主は、幼くその父も他界していたので、藩主の強い意思でなされた懲戒処分とは想像できない。改易及び、一族の事実上の追放は、明らかに厳科すぎるものであり、野口氏が権力闘争に敗れたか、謀略によるものであると考えられている。
1689年(元禄2年)信濃国小諸藩1万5000石に転封された。内実は3万石の領地が与えられたのであったが、公称(表高)は、1万5000石に抑えられたのであった。これは、当時の藩主である3代目の康重が将軍徳川綱吉の母桂昌院の実弟本庄宗資の実子であるという縁から綱吉に引き立てられ、小藩ながら城持ちで格式の高い小諸に栄転させられたものである。
その後、天領を経て、1705年(宝永2年)彦根藩井伊氏の嫡流筋にあたる井伊直矩は、義父で遠江国掛川藩主であった直朝が精神疾患を理由に改易となった後、家名存続が許され2万石で再び立藩し廃藩置県まで存続した。掛川時代は城主大名であったが無城大名に降格し、参勤交代を行わない江戸定府となった。1804年(文化元年)6代直朗は若年寄としての功績により城主格となり、参勤交代が認められた。それを機に与板城の建設が行なわれ、1823年(文政6年)、7代井伊直暉の時に完成した。
なお、最後の藩主直安は養子であって、実は大老・井伊直弼の三男である。1871年(明治4年)廃藩置県により与板県となった。その後、柏崎県を経て新潟県に編入された。
1884年(明治17年)藩主家は子爵となり華族に列している。
[編集] 歴代藩主
[編集] 牧野(まきの)家
譜代 1万石 (1634年~1689年)
[編集] 井伊(いい)家
譜代 2万石 (1705年~1871年)
- 直矩(なおのり)〔従五位下、兵部少輔〕
- 直陽(なおはる)〔従五位下、丹波守〕
- 直員(なおかず)〔従五位下、丹波守〕
- 直存(なおあり)〔従五位下、伊賀守〕
- 直郡(なおくに)〔夭折により官位官職なし〕
- 直朗(なおあきら)〔従四位下、右京大夫 若年寄〕
- 直暉(なおてる)〔従五位下、宮内少輔〕
- 直経(なおつね)〔従五位下、兵部少輔〕
- 直充(なおみつ)〔従五位下、兵部少輔〕
- 直安(なおやす)〔従五位下、兵部少輔〕
[編集] 藩の関連項目・・・ 現存建物
与板藩の陣屋の大手門が浄土真宗本願寺派新潟別院に明治維新後、移築されている。また切手門が恩行寺に移築され、両方とも長岡市の指定文化財に指定されている。