上毛かるた
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上毛かるた(じょうもうかるた)は、昭和22年に発行された郷土かるたである。群馬県および栃木県を古代は毛の国といった。のち毛の国は分化され、上つ毛の国と、下つ毛の国となった。上野と下野である。すなわち上毛とは群馬県の古称である。かるたでは、群馬県の土地、人、出来事を読んでいる。(全44枚)
群馬県内の子供達は、毎年2月に行われる上毛カルタ県競技大会に向けて、冬休みを利用するなどして練習に励む。そのため、子供時代を群馬県で過ごした人はカルタを暗記していることが多い。
札の中で、「ち」の札だけは時代によって内容が変化する。「ちから あわせる ○○万。」となっていて、○○にはその時の県人口が入るためである。2006年現在は、200万となっている。
1998年には英語版も発行されている。財団法人群馬文化協会が発行元であり、各種の著作権を有している。
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[編集] 誕生
1946年(昭和21年)、旧制・前橋中学出身の浦野匡彦(のちに二松学舎大学学長に就任)は満州から故郷・群馬へ引き揚げ、恩賜財団同胞援護会県支部を取り仕切り戦争犠牲者の支援に取り組んでいた。敗戦後の世情は混乱し、戦争孤児・寡婦などの境遇は悲惨なものだった。また、GHQの指令により、学校教育での地理・歴史の授業は停止されていた。人一倍郷土を愛し、誇りに思っていた浦野は、群馬の子供たちには愛すべき故郷の歴史、文化を伝えたい、という思いを募らせていった。
そのような中、1946年7月15日に前橋で開かれた引揚者大会で浦野は安中出身のキリスト教伝道者、須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案される。1947年1月11日の上毛新聞紙上で構想を発表し、県内各方面から題材を募った。郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会が44の句を選び、その年内に初版12,000組が発売された。翌1948年には第一回上毛かるた競技県大会が開催される。
[編集] 札の内容
子供たちに群馬の歴史、文化を伝えたい、という趣旨から群馬県の人物、地理、風物などが幅広く読まれている。 人物としては、新島襄、内村鑑三、関孝和、新田義貞、田山花袋などがとりあげられている。特に船津伝次平、呑龍上人、塩原太助といった人物はかるたで取り上げられることで現在まで語り継がれたともいえる。一方、勤皇の志士・高山彦九郎、義侠・国定忠治、悲劇の幕臣・小栗忠順などはGHQによりその思想や犯罪が問題とされ不採用となった。
地理、風物に関しては上毛三山(赤城・榛名・妙義)や、全国に知られた草津・伊香保・四万などの名湯のほか、下仁田のこんにゃくなど、県内各地から(地域バランスといったことは余り考慮せず)選ばれている。
読み札の裏にはその地域の説明が書かれてある。
[編集] ルール
上毛かるた大会では個人戦と団体戦があり、個人戦は1対1で、団体戦は3対3で行われる。 両者が向かい合って座り、それぞれが22枚のとり札を個人戦では3段に、団体戦では2段に並べる。
読み手は最初に2回の空読み(「鶴舞う形の群馬県」を2回読む)を行い、その次に読む札から競技が始まる。読み手は各読み札を2回づつ読む。
お手つきは、正しい札がある陣地側の札に間違って手をついた場合はペナルティ無し。正しい札のない陣側の札に間違って手をついた場合はペナルティになって相手に1枚を渡すことになる。
最後に2枚残った時点で札を左右に並べ直し、最後から2枚目を取った側が最後の1枚も得る。 団体戦の場合、最後の2枚の対戦は中央に座る者だけで行う。
勝負は、個人戦の場合は取った札が多い側の勝利となる。22枚対22枚の場合は「つ」札を持つ側の勝利になる。団体戦の場合は取った札の枚数に役札の得点を加えた合計点が多い側の勝利になる。同点の場合は「つ」札を持つ側の勝利になる。
[編集] 役
上毛かるたの団体戦においては、特定の札の組合せを集めると役となる。以下の役がある。
- つちけ(親札)
- 10点役
- 群馬県の地形・人口・県庁を表している。
- つ - 県の形
- ち - 人口
- け - 前橋市(県庁所在地)
尚、小学生は五市札及び三山札、中学生はすべての役が適応される。