万イク
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本来の表記は「万彧」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
はじめ呉の鳥程の令であった。このとき、孫皓と仲良くなり、孫休の死後、孫皓の皇帝即位に尽力した。張布らは孫休の遺言に従ってその遺児を擁立しようとしたが、幼少であることを理由に万彧は強硬に反対し、孫皓の即位を実現させたのである。この功績により、孫皓から右大司馬左軍師に昇進した。さらに右丞相を兼任し、巴丘の守備を任されるなど、孫皓から重用された。後に先帝時代からの実力者である濮陽興と張布らを孫皓に讒言して失脚させ、実権を完全に掌握したが、後に専横が甚だしくなって周囲から非難を受け、孫皓によって懲戒処分を受けた。万彧はこれにショックを受けて憤死したのである。三国志演義では、孫皓に諫言したが聞き入られず、逆に怒りを買って殺されている。
同僚で、清廉なことで知られていた王蕃とは仲が悪かったといわれている。